月葬つきおく

書架弐



 今夜も月が眩しい。
 夜半過ぎに目覚め、ベッドから身を起こした宇多川うたがわは、開け放たれた窓を見て低く呻き、頭を抱え込んだ。アパートの室内で、ベッドから最も離れた位置に設けられていた大きな窓が、開いていた。
 眠りに就く前に閉めた筈の窓とカーテンが、清々と開け放たれている。大きく開かれた窓から、まだ冷たい三月下旬の夜風と、それよりも尚冷えた月光が部屋へと這入って来ている。
 蜜のように濃厚な金色こんじきに輝く月が、部屋中に影を落とす。
 窓枠に、床に、ベッドに。そして宇多川の脳の中に、月の光が這入り込んで来る。
 越してきたばかりのアパートの一室が、一面の月の洪水に満たされるのを目の当たりにして、宇多川は体の震えを収めることができない。
 脳に異常をもたらす月とその光を、宇多川は何よりも恐れる。だから窓に鍵を掛け、カーテンを閉めて寝ていたのに、一体誰が開けたのだろうか。宇多川はたった一人でこの部屋に越してきたと言うのに。
 今夜は限りなく満月に近い月の夜だ。満月になるまであと二晩足らずの、月齢十三の月が空にいる。月を恐れる宇多川なら、決して窓を開けるはずが無い。月影は深く、眩しかった。
 月を隠さねばならない。宇多川はただベッドの上で震えている訳にもいかず、覚悟を決めた。
 ベッドカバーを頭から被って、長身の体躯を引き摺るようにして、そろそろと床へ降りた。そのまま床を這うようにして、月の光からなるべく姿を隠そうと努力しながら、ゆっくりと窓へ近付いていった。床だけを凝視し、絶対に、月は見ない。腕を伸ばして、窓の下の壁に手をつく。不慣れな新しい部屋の中、手探りだけで窓を探し、震える指先で何とか窓を閉め、しっかりと鍵を掛ける。
 分厚い遮光カーテンを力一杯引き寄せて、そこでようやく安堵の息を漏らした。暗闇を取り戻した部屋の床にぺたりと座り込んで、被っていたベッドカバーをようやく脱ぐ。目覚めてから窓を閉めるまでのわずかな間に、冷や汗で全身が汗だくになっていた。
 宇多川はよろめきながら立ち上がった。額から汗が零れ落ちて、鼻筋を伝って床へ落ちた。
 顔を洗って寝直そうと思った。月のことなど、忘れようとした。
 汗を吸ったパジャマを脱ぎ捨て、鼻の下に伝ってくる汗を手で拭いながら、洗面所へ向かう。
 洗面所の照明の電源がどこにあるか、暗闇で少し惑った。照明を点けた宇多川は、洗面台に据え付けられた鏡を覗き込んで、思わず身を強張らせた。
 鏡の中で、顔面を血に塗れさせた宇多川が、驚いた表情でこちらを見返していた。鼻の下から頬の上の辺りにべったりと赤い血が付いている。怪我でもしたのかと思い慌てて手で顔に触れてみたが、触れた箇所には、またべっとりと血が付いた。
 両手を開いて視線を落とせば、掌一面が血に濡れていた。
 特に右の手はひどく血に塗れ、よく見れば真っ赤に染まった掌の真ん中には、鋭利な刃物で切りつけられた痕が残っていた。左手の血はおそらくこの右手の出血が付いたものだろう。宇多川の右掌は斜めに大きくためらいもなく切り裂かれ、パックリと開いた赤い傷口は、大口開いて宇多川を見上げて笑っているように見えた。
 宇多川は顔を顰めた。痛みは何も感じなかったが、知らぬ間についた傷が不快だった。
 水道の蛇口を捻り、勢いよく出た流水に手と顔を突っ込んで、血を乱暴に漱ぐ。
 タオルで顔を拭くのもおざなりに、苛立ちの所為で足音も荒く洗面所を出て部屋に戻り、そこが暗いことを思い出して室内灯を点ける。
 だが部屋の様子を一瞥して、宇多川はまた愕然として立ち尽くした。
 白熱灯の光に照らし出された部屋の壁に、大きな赤い文字が書かれているのが見えた。
 一文字一文字が宇多川の顔よりも大きい。その字はどれも不吉なねっとりとした質感の赤い色で記されていた。どこか見覚えのある、奇妙な文字だった。





 簡潔な文章だった。どの文字も左右が反転した鏡文字で、文章が右から始まり、左で終わる。
 文字を見つめしばらく絶句した後、宇多川は力もなく、崩れるようにしてその場に膝を突いて座り込んだ。これは一体何なのか、現状を把握しかねた。
(大、人、に、な、る、な?)
 それが何を意味しているのか、よく解からない。
 ただ、文字が赤い訳はおぼろげながら想像がつく。きっとそれは、宇多川の血で書かれたのだろう。
 宇多川は髪を掻き毟るようにして、頭を抱え込む。
 宇多川は何も覚えていない。
 このアパートに越してきたことしか覚えていない。荷物を開いてベッドで眠りに就いてから、自分は何かしたのだろうか。二年前の記憶もない癖に。
 無理に記憶を引き出そうとして、こめかみの辺りが痛んだ。
 カーテンと窓の向こうの月に、笑われたような気がした。
 二年前と同じだと感じた。

 今夜も、月が眩しい。

 


書架弐


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