ニライカナイ

書架



教室の片隅でカンバスと睨めっこしていたら、おれと同じ絵画コォスの牧原くんが声を掛けてきた。彼はおれのカンバスを覗くなり「うわっ」と叫んだ。
「真っ白じゃん! ……蝶子サン、またビョウキ始まった?」
マッキィ、いきなり核心突いてくるなぁ……。
彼の言う通り、おれのカンバスは何も描かれておらず、真っ白だった。彼は更におれに訊く。
「月末提出だよ? 間に合うの?」
うーん……。
何かねぇ、テェマが出てこなくて。
「何でもいいから、とにかく描けよ。提出しなかったら点数貰えないんだよ。蝶子サンは絵、上手いんだから、提出期限さえ間に合えば何とかなるって」
むぅぅ。
「急ぎなよ? 俺らもう帰るけど……。蝶子サンはまだ頑張ってくの?」
ううん。
「おれも、もう帰るよ」
「寮に戻る?」
ううん。
おれが首を横に振ると、マッキィはすぐに気付いて笑った。
「あ、今日も旦那のとこか」
そう。
おれも思わず笑ってしまう。「今日も」と言われるくらいあの家に入り浸っていたのかと、今更のように恥ずかしくなったが、同時に妙に嬉しかった。
ネジはそれでも嫌がらないでいてくれるから。
「今日も、ネジん家に帰る」
そう言ってマッキィに手を振って、おれは真白いカンバスを仕舞い出した。



大学から出るスクールバスに乗って、六つ目のバス停に降りて、そこから徒歩十分。何処となく懐かしい匂いのする路地を抜けて行くと、友人の螺子の家がある。
彼が旦那と呼ばれるのは、半分はおれの「ゴシュジンサマ」の意味が込められているらしいが、残りの半分は、彼の特技に引っ掛けた意味だ。
彼はきっと、今日も趣味の楽園に埋没しているだろう。
「ネジ、どうせ飯も作ってないんやろなぁ」
バス停を降りて、すぐにそんな独り言が零れる。同時に白い息が、夕暮れの冷たい空に舞った。
一月になると、流石に寒かった。今夜辺り、雪が降るかもしれない。
あったかいものでも作ってやるかと思って、おれはネジの家に行く前に、まずスーパーの方へ足を向けた。



スーパーからの帰りは、ネジが「ケモノミチ」と呼んでいる裏道を通ることにする。
近所の人曰く、夕暮れ時は痴漢が出るから「獣道」らしいが、街灯もない真暗闇のこの道は、むしろ鬼でも出そうな雰囲気がある。
どっちかと言えば「モノノケミチ」だと前に言ったら、ネジの奴に馬鹿にされたけど、でも自分としては言いえて妙だと思ってる。本当にこの道はおっかない。
鬱蒼とした竹薮とこじんまりした神社だけが建っていて、他に何もないのだ。うっかり真夜中にここを横切ると、闇に埋もれた赤鳥居に、魂を引っこ抜かれそうな気分になる。
今日も、完全に陽が落ちる前にと、おれは早々と神社の前を通り過ぎて、ネジの家に裏口から入っていった。



ネジこと『オルゴール職人の旦那』は、案の定、居間で大量のオルゴォルやオルガニィタに埋もれていた。おれが入って来たのにも気付かないほど、オルゴォル作りに集中している。壁際に置かれたオルガネットに向き合う格好で、居間の入り口に背を向けていた。
もう、見慣れた背中だ。広い肩幅で、どちらかと言えばスポーツに向いているだろう体を、手元のオルゴォルの箱を守るように、小さく縮めてしまっている。
きっと今声を掛けても返事はない。おれは勝手に台所に入って、夕食のうどんを煮る為にお湯を沸かす。
居間に戻ってから上着を脱いで、ネジの真後ろに座った。それでも、まだ彼は振り返らない。
「ネジ」
声を掛けたが、やはり振り返らない。冗談でなく、全く聞こえていないのだ。
「ネジ。夕飯作ったげるから、こっち向いて」
「…………」
「うどんでいい?」
「…………」
「ネジ……」
「…………」
「……ごんぞうッ!!」
「その名で呼ぶんじゃねぇ!!!」
即行で振り向いたネジこと螺子にし欣造ごんぞう(20)は、思い切りおれの脳天をどついた。体格がいい男だから、腕力だって半端じゃない。おれは頭を抱えて、ゴンゾウ(本名←ぷぷっ)を罵倒した。
「痛ぁーッ!! 何すんねんアホぉ!!」
「その名前で呼ぶなって、何度も言ったろうが!! てか、オマエいつの間に!? どっから入って来た!?」
「ついさっき、堂々と玄関から入って来たわ、ボケ! ゴンゾウが気付かへんかっただけや!」
「そのっ、時代錯誤な名前で呼ぶなよ!」
「やーいゴンゾウ、間抜けな上にゴンゾウやて、だっさァ」
「オマエなぁぁぁ! 名前的に変っつったらオマエのが変だろが! オマエだって蝶子だろ!?」
「変でもゴンゾウよりマシやー」
「……コロス!!」
ネジが螺旋ねじ回し片手に立ち上がったので、捕まらない内に走って台所に逃げ込む。普段はトロくても、いざとなったらおれの行動はめちゃくちゃ早い。
「ゴンゾウ、それ以上おれに何かしたら、オマエの分のうどんだけ、具入れたらへんからな!」
「え、何。作ってくれんの?」
追っ掛けてきたネジは、鴨居に頭をぶつけないように屈みながら歩いている。ネジの曾お祖父さんが大正時代に建てたと言うこの家は、昔の日本人の平均身長に合わせて作られているらしく、鴨居も天井も低い。背の高いネジはいろいろ苦労しているらしいが、そんなの、身長が公称で170センチのおれにしてみたら、ただの嫌味だ。
おれはぷいっとそっぽを向いて見せた。
「さっき、うどんでいいか訊いたやん。ええよ、嫌なら作らへん」
「嫌なんて言ってないじゃん。作ってよ。俺、お腹減っちゃうよ」
すぐに甘えてくる。さっきまで人のコト殺そうとしてた癖に……。
ネジはドライバァをズボンのポケットに仕舞って、にこっと笑った。
「帰ってくるの遅かったな。授業、遅くまであった?」
「…………」
おれは一瞬言葉を無くす。
(こいつは……)
おれが入ってきても気付かない癖に。
おれがここに「帰ってくる」ことには、気付いてる。
「……やな奴」
「は? 何か言った?」
惚けたようなイヤミ男に背中を向けて、おれは鍋に向き直った。
「ゴンゾウ、今夜は素うどん決定な」



「なぁ、よくわかんねーけど、機嫌直せよ」
結局甘え倒されて、きっちり具を入れてやったうどんを抱えて、ネジは不思議そうにおれを見てくる。が、アホか。
オマエが理解せんから、おれの機嫌が直らんっちゅーねん。
「絵の創作、進まねぇの?」
しかもこの男、肝心の問題を解決しない内から、次々と新しい地雷を踏んでいく。
一番思い出したくなかったことを思い出さされて、思いっきり腹が立った。
「っっさいなァ! 飯は黙って食え!」
「図星か」
「…………」
おれはぐったりして、ちゃぶ台に突っ伏す。
本当に、真っ白のままのカンバスは、思い出すだけで、おれの心をどん底まで叩き落してくれるのだ。せめて食事が終わるまでは、その問題に触れたくなかった。
すっかり食欲が無くなって、おれは箸を置いてしまう。ネジが心配そうにおれを見た。
「絵って、月末に提出しねーとやばいんだろ。大丈夫か?」
「……おれ、今ビョウキやねん」
ぼそっと言うと、ネジが即座におれの額に手を当てる。勘違いに笑ってしまう。
「違うよ」
怪訝そうな顔をするネジの掌を掴む。すると、彼が本当におれのことを心配しているのが解って、嬉しい反面、切なかった。
「……おれな、タイトル思い付かないと、ダメなんよ」
「はぁ?」
ネジは解らないと、首を捻る。おれは説明してやった。
「絵を描くときは、まず絵の名前タイトルを思いつかないと、何にも描かれへんの。ないと、ちっともイメージ湧いてこない。カンバス真っ白なまま。幾らアレ描こう、ソレ描こうって考えてもダメなん……」
おれはネジの額を指先で突いた。
「たとえばネジを描こうとしてもな。まずタイトルを考えないと、描けないの」
「俺には名前あるだろ」
「ううん……ネジとか、ゴンゾウとか、そう言うんじゃなくて……」
下の名前で呼んだ途端、ネジが物凄い勢いで睨んできたが、無視する。
「……たとえば『友人』にするか、『オルゴォル狂』にするかって、そう言うタイトルを思い付かないと全然描けないの。目の前に描くべき螺子モデルがいても。名前がないと、ネジの輪郭は見えてるのに、いつまでたっても顔の真ん中が見えてこない、そんな不確かな感じがして、何にも描けへんねん。それがおれのビョウキ」
ネジは何か考えるように天井を見た。彼は空になったどんぶりを爪でコツコツと叩き、それから訊ねてきた。
「もし逆に、最初からタイトルが思い付いてたら?」
「そしたら、モデルなくても描けるくらいの勢いが出るね。たとえば、教室で絵を描こうとしてて、急に『オルゴォル気違い』てタイトルが思い付くと」
「さっきより例えが酷くねぇか……」
「教室にネジがいなくても、おれの頭の中のイメェジがめちゃめちゃはっきりしてるから、殆どモデルなしで描けると思う。まぁ詳しいオルゴォルの部品とかは、実物見ないと流石に無理やろうけど」
「ふぅー……ん」
ネジは口元に拳を当てて、面白いな、と呟いた。
「人が困ってンのに、面白いはないやろ」
「いやいやいや。名前だけで絵が描けるなら、協力してやれるかな、と思ってさ」
「協力ぅ?」
「うん。……今、絵、真っ白なんだろ?」
言われて、おれはぐっと背中を反らした。正座をして、背筋を伸ばしてそれでやっと、だらしなぁく胡座をかいてるネジと、同じ座高になれる。
「……お願いします」
深々と頭を下げて頼み込む。助けてくれると言うならなら、助けて貰おう。
本当に、提出期限に間に合いそうにない。切羽詰っていた。



夕食の後片付けを終えてから、ネジはおれに訊いてくる。
「今は本当に、何にも思い付かないのか? タイトルじゃなくて、テーマとか、モチーフとか」
「ううん……。描きたいものは、なんとなくあるの。はっきりしないだけで」
おれは、一番お気に入りのオルガニィトを自分で鳴らしながら、首を振る。
オルガニィトは懐かしい、足踏みオルガンみたいな音を立てる。CDのようなものには出せない、この綺麗な音色が大好きだった。
「理想郷、とか、さ。描いてみたいかなぁー……っと」
ぽつりと言う。口に出すと恥ずかしい。
なのに無神経なネジは「聞こえない」と抜かしやがった!
「理想郷! 二度も言わすな」
「また、漠然としたテーマだな」
ネジは首を捻る。それはおれにも解ってるけど。
「たとえばどんな感じだよ?」
「んー?」
「オマエまで首捻んな。理想郷とか、それに近いぼんやりしたものって、類似品が多いじゃん。天国とか、極楽とか、桃源郷とかさ。イメージはどれに近い?」
「洋風か和風か中華風かってことか?」
「それでもいいけど。何かイメージはあるんだろ?」
うーん……。
おれはしばらくオルガニィトを鳴らすのを止めた。じっとして、考える。
描きたいもの。
理想郷。
そもそも、何でそんなもんが思い付いたんだろう?
そう呟くと、ネジから返事があった。
「現状に不満でもあるんじゃねぇの」
ネジはくしゃみをしながら言った。「寒いな」と呟いて、立ち上がって縁側へ行く。カァテンを開けて、ガラス戸越しに外を見た彼が、おれを呼んだ。
「雪、降ってる」
オルガニィトを置いて、ネジの隣に並んで立つ。広い庭が、薄く雪化粧されていた。
「おおおっ、めっちゃキレイ! 明日になったら積もるかなぁ?」
「ああ……まさか雪掻きは要らないだろうな」
現実的な心配を零す男を見上げて、おれは少し考える。
「……ぱんち」
適当なことを言って、片手を拳にして、軽くネジの頬に触れさせる。
そこから流れ込むのは、ネジの感情。本当に、雪掻きのことしか考えてなさそうだった。心配そうな気持ちしか、おれの処にはやって来ない。
「何だよ」
ネジが軽いパンチを仕返して来るのを睨んで、おれは失意の溜息を漏らしてやった。
「夢のない大人やね。雪が降って楽しいとか、ちょっとは思われへんの?」
「俺は夏の方が好きだ」
ネジは縁側の下にある筈の、見えない墓を覗き込もうとしてガラスに顔面をくっつける。
「オマエと遇ったのも、夏だっけ?」
言われて、おれは小さく頷いた。熱心に外を見るネジを、一歩下がって見詰めた。
ネジは何も気付かない。おれはそっと彼の背中に触れようと、手を伸ばす。
だがおれの指が彼に触れる寸前で、彼が急に話し掛けてきた。
「あン時は助かったなぁ……。蝶子が言って、オルゴールの葬式したの」
「…………」
おれは、一瞬止まった指先を、そのままネジの背中に触れさせる。
ネジが本気でおれに感謝しているのが解った。
(おれの指先は、すぐに人の感情を盗み読むのに)
おれに触れられてネジが振り返る。機嫌のよさそうな彼に、おれは不安丸出しの声で訊いた。
「ネジは、おれに遭って嫌な思いしなかった?」
「……何、急に」
ネジは不思議そうな顔をしただろう。顔を見なくても解ってしまう。
「おれ……は。……毎日ここに来るやん。迷惑か?」
「別に? ……オマエ来ても、俺は何にもしてねぇし……いつもと変わんねぇもん」
ネジは意外そうに答えた。実際、この家で家事を一番しているのはおれだと、おれ自身も思っている。無神経なこの男は、客を客とも思わないのだ。
少し安心して、おれはにっこりと笑って、ネジを見上げた。
「なら、今日も泊まってってもええよな?」
現状に不満はないけど、不安はある。
泊まる必要も理由もないのにそうねだって、それでもネジがあっさり「いいよ」と言ってくれるのが、おれの崩壊寸前の意識をいつも救ってくれていた。
無神経なネジは、今日も簡単に、「いいよ」と答えた。


おれの指はいつだって人の心を盗み見る。
生まれたときからそうだった。触れた物、触れた人、その全ての気持ちを、勝手に読み取っておれに伝えてしまう。おれがそれを知りたくないと思っても、そんなことにはお構いなしに、罪もない他人の心をおれに知らせてしまう。おれの家族、おれの友人、おれの恋人。
大事な人の心を盗み見るのが、昔から苦痛だった。
だから、本当はネジの心だって読みたくない。
読みたくない。……なのに。


二階建てのこの家で、ネジの私室は二階にある。客間は一階の何処かに存在するらしいが、ネジは、
「あそこは埃とダニエル君の棲家だから、使っちゃダメ」
と言う。因みにダニエル君は、別名をダニーとも言うらしい(要するにダニ)……。
結局、ネジは毎晩居間のオルゴォルの側で寝ないと安眠出来ないらしく、おれは遠慮なくネジの私室で眠る。その昔、ネジが母親に買い与えられたと言うベッドは、「ぶっちぎりで布団派だ」と宣言する彼が使ったことは一度もないらしく、新品同様のそれを、おれが私有化している。
スプリングを鳴らして、輾転反側しながらおれは考える。
(理想郷、か)
教室でもずっと考えていた。一体何が描きたいのか。未だ自分でも解らなかった。
(おれの理想って、何やろ)
枕に半分顔を埋めて考える。理想。
(毎日ネジんちに来て、絵のこと考えたり、描いたりするだけの暮らしが理想やけど)
けれどそれは実現可能なことだ。今日も実行出来ていたし、昨日も出来たし、きっと明日もそう出来るだろう。
(理想郷は、現実じゃなくて理想を描かなあかん)
おれは枕を抱きかかえる。
(ネジの家に来ないで、絵のこと考えないで、描くこともない世界……)
考えてみたら、真っ白になった。カンバスと同じように、頭の中が真っ白になる。
(ネジのこととか絵のこととか、全部無くなったら、おれの世界は何にも無くなる……)
おれは顔を挙げて、目を瞬いた。
だから、教室で真っ白だったんだと、気付く。
絵を描かないこと。それがおれにとっての非現実だから。
(絵を描かないことがおれの理想?)
(理想かもしれない)
絵を描かなければ、きっと絵について悩むことはなくなる。ちっとも上手くならないとか、描きたいことが描けないとか、息が詰まって死にそうになるくらい、死にたくなるくらい考えなくて済むようになるなら。苦しくないなんて、なんて理想的。
(おれは痛みに弱すぎるんかなぁ……)
痛いことや苦しいことが少しでもあるとすぐに泣いてしまうし。怖いことも駄目だし。辛いことがあれば逃げるし。危険な目には絶対に遭いたくない。いつだって平和に健やかに生きていたいと思う。
絵で苦しむのだって、本当は大嫌いだった。もう何年も描き続けてはいるけれど。
(才能なんてないもん)
いつも最後は不貞腐れてそう言い訳する。思うように絵が描けなくて、出来上がっても、まだまだ何かが足りないような気持ちになる。努力で補うにはもっと何年もの積み重ねが必要なのかって、思うけど、でも時々、おれよりもずっと短い期間で全て終わらせる人もいるし。
血と汗と泪で塗り固められた、犠牲の上に成り立った天国の絵よりも、おれはきっと、思うまま自由に気楽に描かれた、無償の地獄絵図の方が好きで。
結局惹かれるのは光り輝くものだと思う。
(それと……)
おれは、ネジの背中を思い出す。
あいつは本当にヤバイと思う。人よりもオルゴォルのことを大事に思っている癖に、全く自覚がないのだから。目に見えないストォカァのようなもんだと思う。
自分の最愛のモノを、世界で一番輝かせる為に、自分の全てを犠牲にする男。
自分が苦しいとか、辛いとか、そう言う感覚が、オルゴォルに向き合っているネジには一切なかった。少なくとも、おれの指先では解らなかった。
おれとは全く違う、ネジ。
おれは自分の指先を見詰めた。成長が止まったみたいに、子供みたいに小さな手。
ずっと昔から、他人の気持ちを全て暴いて呑み込んできた指だった。
ネジと初めて遇ったときも、ネジの悲しい気持ちがすぐ理解出来たのは嬉しかったけど、それ以外では殆どロクな思い出は作ってくれなかった、嫌な指。
他人の気持ちなんて、早々読むもんじゃないと思うけど、おれの意思とは裏腹に読んでしまうことが多かったから、嫌いだった。
(ネジのことだけは、おれがおれの意思で読んでるけどな)
自嘲して、おれはベッドから起き上がる。布団の中で考えても、何も思い付かなかった。
窓へ行き、カァテンを開けて外を眺めた。雪が大分積もっていた。
(何描こう)
結局振り出しに戻る。教室にいたときと同じだ。
寒いのを覚悟して窓を開けて、雪を掌に受け取りながら考えた。
いっそ、白いまま行こうか、と思う。
白いカンバスなら、白く塗ってしまえ。
(そしたら、雪でも描くかなぁ)
現実と離れた非現実に理想郷があるのなら、そこはきっと真白い世界の筈だ。おれの大事なものが何一つない世界。
(雪……雪だけ?)
窓枠に身を乗り出して、はぁぁっと息を吐き出す。それも白。
一面の雪景色。現実の世界が全て埋もれてしまった、何もない世界。
それだけじゃ物足りない。
(何かが埋まりかかってるんだ)
イメェジが少しだけ詳しくなる。名前が思い付くまで、ぎりぎりの処までイメェジを膨らませておこう。雪に埋もれかけた何かのイメェジ。
きっと、現実世界の遺物だ。誰も踏んでいない積雪の中央で、ソレだけが静かに埋もれかけている。
おれが大事にしていた筈の、何か。
(埋もれた……?)



朝になると、10センチ近く雪が積もっていた。2階の窓から見下ろすと、庭が全部雪で埋まっているように見える。野良猫さえ踏んでいない雪は一見ふわふわで、飛び降りてもふんわり着地出来そうな気になる。……実行はしないけど。
ネジ捕まえて、雪遊びでもしようかなと思って、上着を羽織って一階へ降りる。
一階に下りたところで、女の声が玄関から聞こえてきて、おれは心臓が止まりそうなくらい驚いた。
日曜の朝、雪の中を、わざわざ訪ねてくる女。
ま、さ、か。
(あいつ、彼女がいるとか??)
あの朴念仁に?? オルゴォル以外アウトオブ眼中だと思ってたのに。
(う、裏切り者ぉ……)
抜け駆けやろ、それは。
おれが走って玄関に行くと、だが予想はまるっきり裏切られていて、ほっとしたような、物悲しいような複雑な気持ちになった。
(やっぱネジはオルゴォル以外に興味ないねんな……)
そう、社会不適合者やもんな、ごんぞうは。
玄関では、女の子に腕を引っ張られてうんざりしているネジがいた。彼女は確か、ネジと同じ工芸学科の岡本さん。ネジのオルゴォルをわざと落としたことがあって、それ以来ネジが徹底的に嫌厭している女の子だった。
(この子も、ストォカァみたいなもんやなぁ)
ネジはさっぱり解ってないが、要するに岡本さんはネジが好きであって、構って欲しいらしいんだけど。
「おはよぉさん、ネジ。朝メシ作るの、お前の番やで」
おれは近付いて行って、岡本さんと反対側からネジの腕を引っ張った。
ネジは本気で岡本さんを嫌いらしく、逃げ出したくってうずうずしていた。おれは寝惚けた振りをして、ネジを強引に彼女から引き離した。
「なぁ、お腹減ったってばぁ! 早よご飯作ってぇぇぇ」
「だな。オマエ、メシ喰わないと動けなくなっちゃうもんな」
ネジはホッとしたように笑って、岡本の手を振り払う。
「じゃあ、そゆことで。そのくらいなら岡本でも修理出来る。保証する。じゃあな」
「螺子くん!」
岡本さんが叫んだが、ネジはおれを連れて廊下を猛ダッシュして、居間を通り抜けて台所へ逃げ込んだ。おれはネジの肩からぶらさがって、彼の顔を覗き込む。
「岡本さん、何て?」
「オルゴールの修理を頼みたいって」
ネジは疲れた顔をしていた。サルみたいにぶら下がったおれを肩から下ろさないまま、ズルズルと冷蔵庫の前まで歩いていく。
「岡本の家にあるアンティークのオルゴールを修理してくれってハナシだったんだけどさ……。アイツ、訳わかんねぇよ」
ネジは朝食の仕度を始めながら、ぶつぶつと語り出す。
「前は俺に敵意剥き出しだったのに、最近はやたらと声掛けて来る。お陰で俺、学科の連中に岡本のオトコと間違われてる。冗談じゃねぇよなぁ?」
怒ったように言って同意を求めてくるネジには悪いけど、それは仕方ないだろうなと思う。
「あの娘きっと、ネジのこと好きなんよ」
「冗談じゃねぇ」
ぷいっと顔を背けてしまうネジは、岡本さんには全く興味がないらしい……。
安心したような、拙いような。
岡本さん、性格は解らないけど、結構可愛い娘なのに。大学内での競争率、高いぞ。
それを冗談じゃないって言っちゃう、ネジの趣味は解らない。
(そもそも、コイツが彼女欲しいとか言ってる処を見たことがないなぁ……)
そう思った直後、おれの心を読んだように、ネジがぽつりと言った。
「まともな彼女、欲しいなぁ……」
「!」
おれは思わず飛び退ってネジから離れた。ネジが「何だよ」と振り返る。
「……ネジ、オルゴォル以外のモノに興味あったんや……」
「人を欠陥品みたいに……」
「どんな女の子がええの?」
思わず駆け寄って訊いてしまう。
ネジは葱を切りながら、のんびりと答えた。
「んー……。俺がオルゴールいじってる間に、飯作ってくれたり、掃除してくれたりする娘」
「……そんなん、おれが普段やらされてるやん……」
オマエにとっての彼女は、家政婦か何かか?
「そうだなぁ」
ネジは包丁を一瞬止めて、湯の沸いた鍋を覗き込んだ。
「じゃあ、別にいらないわ」
はぁ?
「昼飯、オマエ作れよ」
いや、それ、鍋で味噌溶いてる場合やなくて。
(こいつ、マジでヤバイ……)
おれは問答無用にネジの耳を引っ張る(別に何処でも良かったけど)。指から、ネジの心が読めて。
「本気で、オルゴォル以外に興味ないんやなぁ……」
「何で解るんだよ?」
しみじみ呟いたおれに、ネジが流石に胡乱な目を向けた。
「オマエ、ほんと人に触るの好きだよな」
セクハラ上司でも見るかのようなその視線、止めて。
触らな、ネジが何考えてるか解られへんねん。
「そういや、絵のタイトルって決まった?」
味噌汁を椀に移して、ご飯と一緒にちゃぶ台に並べてから、ネジが訊いてくる。
おれは首を横に振ってから、取り敢えず、雪が描きたいんだと答えた。するとネジは、残念そうな顔をした。何やの。
「じゃ、調べたの無駄だったか……」
ネジはちゃぶ台の下から、小さな冊子を取り出してきた。宗教学関係の本だった。
「俺のジジイの本なんだけどさ。理想郷とか、それに近いモノの名前も載ってるから使えるかと思ったんだけど……」
わざわざ調べてくれたらしい。ええ人や……。
「けど、雪に合うのはなかったなぁ……。そこの付箋貼ってあるところにな、面白い名前があったんだよ。発音が不思議で」
おれはネジの言う本のペェジを開いた。ラインが引いてある言葉を読み上げた。
『ニライカナイ』。
ネジは嬉しそうに笑った。
「オマエやっぱ、発音トロイな」
ほっとけよ!!
「面白いと思ったんだけどな……ただそれ、沖縄の方の言葉らしいんだ。沖縄の、海の向こうにある理想郷かなんかの名前なんだって。……あんま、雪の絵の名前って感じ、しないな」
ネジは残念そうに言ったけど、おれは何だか妙にこの言葉が気に入った。
(『にらいかない』……)
ニライカナイ。
一面の雪に埋もれたニライカナイ。おれだけの理想郷。
雪原に埋め立てられてしまった、おれの大切な何か達。氷漬けにしてしまえば、永遠に壊れることはないんだから。
(……描けるかも)
イメェジがはっきりと見えてくる。あの真白いカンバスに載せるべき絵が。
白い深い雪に埋もれた現実の中で、たったひとつだけが雪から顔を覗かせているのだ。
一番かけがえのないものが。
おれが全てを失うと同時に手に入れたことの証として、そこに目に見えるように埋もれている。
理想郷の為の見せしめ。
(雪原に埋もれた、)
「……描きたいもの、見えてきた?」
ネジが、自分のことのように嬉しそうな顔をしている。何故だか、おれのことを当然のように大事にしてくれるネジ。無神経なのか寛大なのかよく解らないまま。時折ネジの心を盗み見るおれを、知らないとは言え、平気で側に置いて受け入れている、変な男。
「……見付かった」
おれは本をネジに返して、そう答えた。ネジは興味があるのか、おれの顔を覗き込んだ。
「何描くの?」
期待を込めた声で訊ねてくる。
彼に、おれは自分でも怖いと思うくらい真剣な声で、答えた。
「雪」
「雪景色?」
おれはかぶりを振る。
「雪に埋まってる」
「埋まってる?」
おれはネジの肩を掴んだ(逃げられないように)。
それからネジの目を見て、囁く。
「埋まってる……ネジ」
直後にぞくりと震えたのが、おれだったのか、ネジだったのか、解らなかった。



結局ネジは逃げきれず(笑)、ただ一言「俺を殺す気か」と文句を言った。
「凍傷になりそうやったら、逃げてもええよ」
ダウンジャケットに身を包んだネジは、おれの言葉に肩を竦めてから、覚悟を決めたのか「でりゃ」と叫んで、庭の中央に仰向けに倒れた。新雪みたいに綺麗な雪は、ネジの体重に堪え切れずに陥没する。
なけなしの雪をかき集めて厚くして置いたから、ネジの頭が雪に埋もれた。縁側にいるおれには、ネジの額がちょっとだけ雪の間から覗けて見える。おれはすぐにスケッチを始める。
逃げていいと言ったのに、ネジは一向に動く気配はなかった。
「なーんか、案外気持ちいいな、これ……」
のんきなことを言って、雪に埋もれたまま、目を眇めて空を見上げている。
今日は空が抜けるように晴れていて、日差しが結構強かった。昼になる前に雪は溶けてしまうだろう。おれはなるべく手早く、何枚もスケッチする。
雪に埋もれたネジ。
きっとオルゴォルのことしか頭にないネジ。おれのことも忘れているネジ。
きっと、垣根の向こうから、岡本さんが変な顔でおれらのこと見てるのにも気付いていないネジ……。
オマエ、絶対明日から岡本さんの質問攻めに遭うで。
岡本さんは何も言わずに、おれのことだけ睨んでいなくなった。
(女って、怖いなぁ)
ネジがオルゴォルとおれのことしか相手にしなくても、それは仕方ないことなのに。
(岡本さんがオルゴォル落としたとき、ネジのこと助けたのはおれやねんぞ)
ネジは、彼女よりおれの言うことを聞いてくれるに決まってる。ネジはそう言う奴だ。
(綺麗な顔して、恐ろしいことばっか考えてる……)
スケッチを終えても、ネジは眠っているように、雪から出てこなかった。おれは靴を履いて縁側から下へ降りる。さくさくとした雪を踏んで、おれが近付いて行っても、ネジは動かない。目を瞑って、瞑想でもしているのか。おれはネジの頭の近くに膝をついた。
ネジは雪深く埋まって、目覚めない。
(このままやったら、ええのになぁ)
ネジが絶対に誰も見ない、この状態でいればいいのに。
(ネジは、どう思う?)
人の心を無断で覗き見る奴がいたとしたら、そいつをどう思う?
(どうも思わないのかもな)
ネジはオルゴォルのことしか考えていないから。
おれのこの奇妙な指先が、ただのおれの幻想であっても、真実であっても。
きっと気にしない。おれみたいに、人に読まれて困るような醜い心は持っていないから。
(おれは、こんなにもネジを殺したい一瞬があるのになぁ……)
無神経なネジ。鈍感なネジ。オルゴォルのことしか愛さないネジ。
正直おれは、岡本さんの気持ちが解る。時々壊してやりたい衝動に駆られるのだ。
(どうせネジは、おれのことよりも、オルゴォルが大事やから)
どうせおれ達は、オルゴォルより愛されることは無いから。それならいっそ憎まれたいと。
(だってな、ネジ)
おれが今ここで彼を殺そうとしても、彼はきっと笑って遣り過ごす。けれど、おれがオルゴォルを壊せば、一生許してはくれない。
どっちも本当のおれなのに、ネジは前者のおれを選ぶ。
(オマエはおれのこと見ないやろ……?)
急に泣けてきた。改めて認めると、酷く自分が傷付いていることに気付く。
ネジがおれを見ない。こんなに側にいても、ネジの目は、いつだってオルゴォルしか見ていない。おれを見てないことにすら、気付かない。
ネジの世界は真白だった。オルゴォルしかないネジの世界。
おれには手の届かない世界。
手に入らないならばいっそ、
(雪に埋めたらええねん)
雪の下へ閉じ込めて、彼の世界ごとおれのものにしてしまえばいい。彼を失って、おれの世界は真白になってしまうけど。
「……何で泣いてんの……」
困り果てた顔で、ネジが目を開けて、おれを見ていた。……み、見られたぁぁぁ。
おれは周りの雪を崩して、ここぞとばかりにネジを埋めた。ネジの抗議の声は一切無視。
「どうでもいいときばっか、見んな! ボケ! アホ! 殺すぞ!!」
「いきなり泣いてるテメェが悪ィだろーが!!」
雪を蹴散らして立ち上がったネジは、おれを捕まえてバックドロップの要領で、おれを雪の中へ放り投げた。だけど溶けかかってるから、雪が薄くてマジ痛いねん!
「オマエ、こないだっからおかしいぞ! マジで!」
ネジが怒ったようにそう怒鳴る。
誰の所為やと文句を言おうとしたが、咄嗟に言葉が出てこなかった。
(こんなん、どう考えても、おれの考え過ぎやん……)
おれはどうにも泣き止めなくて、雪の中に座り込んで俯いた。悔しいやら、情けないやら。
ネジの前で泣くのは、これで二度目だ。そう思うと、情けなくて余計に泣いてしまう。
ネジは怒った顔のまま、おれの隣に来て、おれの頭を膝小僧で小突いた。
「……も、」
おれは、ガタガタと震えた声を出した。泣いていたし、寒かったし、子供みたいに震えた。
「いやや……。ガキみたいなことばっか、考えてる……」
不満はないけど、不安ばかりが積もっていた。それこそ雪のように、絵のことから始まって、ネジのこと、自分の指のこと、全てが不安を作り出して積もっていく。
(埋もれてたのはおれの方か)
ネジはおれの言葉が少な過ぎた所為か、黙ってしまった。
ただ、返す言葉のない分を補うように、おれの頭についていた雪を払ってくれる。
なかなか泣き止めそうになかった。
ネジは、無神経に、ずっとそこに立っていた。



それから数日は、絵を描いて過ごした。それ以外のことは全くしなかった。
ネジがオルゴォルに溺れるように、絵に集中する。教室では全然埋まらなかった真っ白いカンバスが、瞬く間に白い雪に埋められていく。
ネジはおれが「何かに取り憑かれている」と言い切り、突然彼の私室に棲み付いて絵を描き始めたおれに、それ以上は何も言わなかった。毎日食事を差し入れてくれては、おれの体調の良し悪しだけを窺って、おれの邪魔は一切しないでいてくれた。
ただ、時折階下から聴こえてくる彼のオルゴォルの音だけが、おれの手を止めさせた。おれはオルゴォルの音を耳を澄ませて聴いては、それを絵の中に閉じ込めていった。
やがて絵が完成したとき、しかし何故だかおれは物足りない気がしてしまった。
(ニライカナイって感じは、確かにしないな……)
おれは油絵の具に塗れたまま、床に寝転がった。足りないモノが何なのか解らなかったが、数日間ロクに眠っていなかったし、体が限界だった。おれはそのまま気絶するように眠った。



目が醒めたのは、おいしそうな匂いがしたからだった。炊き立てのご飯の匂い……。
ネジがおにぎりを持って来てくれていた。おれは数日振りの再会の挨拶もそこそこに、おにぎりをがっついて食べた。その間、ネジはおれの描いた絵を見ていた。
「……オマエ、すごいな」
ネジがそう漏らした。その一言が、作画した当人としてはめちゃくちゃ嬉しい。
「もっと褒めてっ」
「……きれい」
口数が少ないネジだが、目が完全におれの絵に釘付けになっている。頑張った甲斐があったと思う。一瞬でもネジの目が奪えたら、それだけでも満足だった。おれは満面の笑みを浮かべて、ネジの隣に立った。
「すごいやろ? すごいやろ?」
「すごいすごい」
「おれ、天才かなぁ?」
「天才天才」
ネジは隅から隅までおれの絵を見ていた。きっと今なら、オルゴォルのことも忘れている。
おれはついネジに触れたくなって、手を伸ばした。
(…………)
おれは、ネジに触れないまま、手を下ろした。
もう、どうでも良かった。絵が完成した所為だろうか、前ほどネジの中の、俺の存在価値が気にならなくなった。おれの中の不安は、全部絵の制作に費やされたんだと思う。
「きれいだけどさ」
物思いに耽っていたおれに、出し抜けにそう言って、ネジは拗ねたような目を向けてきた。
な、何か文句ある? この絵に?
「……何で俺、服着てないの」
つい身構えていただけに、予想外のネジの言葉に、おれは首を傾げる。
カンバスに描かれたのは、一面の雪野原に埋もれかけたネジだけだった。ネジが絵の手前に頭を向けて寝ている。胸から下は雪に埋もれてしまったネジの絵だったが、確かに、鎖骨から下が異常に開いた服でも着ていない限り、これは裸にしか見えない。
「別にええやん。ダウンジャケットなんて、おれの美学に反するもん」
「美学って……」
ネジは不満げに口の端を曲げた。けど、折角の理想郷の絵に、現実世界の洋服なんて無粋なもんは描かれへんの!
おれはパレットと筆を持ち直して、ネジをじろりと睨み上げた。
「ぶらじゃぁでも描くか?」
「……。いいです」
ネジが顔を背ける。勝った。
苦笑したネジは、おれの絵を顎で示して言った。
「これ、下に運ぶか? 明日にでも学校に持ってかないといけないんだろ」
何で明日かと訊ねたら、今日はもう夕方過ぎているんだと教えられた。おれは日付の感覚も全然無かった。ひょっとしたら、おれ、ネジのこと言えない位ヤバイのかもしれない……。



数日振りに風呂に入って、さっぱりしたおれは、居間に置かれた自分の絵を眺めた。
「何か、足りない気がする」
ぽつりとそう言うと、ネジが首を傾げた。
「完成したんじゃねぇの?」
「うん……。描きたいものは描いたけど」
ネジがおれの隣に座る。彼は、絵に描かれた自分が不思議なのか、何度も目を瞬く。
「この絵の俺って、死んでんの?」
絵の中のネジは目を閉じていた。無表情で、眠っているのか死んでいるのか解らない顔だ。
「半分死んでて、半分は眠ってる」
おれがそう答えると、ネジは「ふうん」とだけ言った。解ってないな。
半分死んでいるのは、ネジがオルゴォルを見ていないからなのに。
何も解っていないネジは、おれの書いたサインの辺りを見ながら、また口を開く。
「これの名前が、ニライカナイ?」
う〜ん……。
それはちょっと違う気がしてきた。この理想郷(ニライカナイ)は静か過ぎて、まるで死んでいるみたいだった。雪に合わせて、ネジまで白く描いてしまったのが失敗だったかもしれない。塗り直そうかと思う。完全に死んでしまった世界を手に入れても、ちっとも嬉しくない。
「何かが足りないねん」
この世界を生き返らせる為の何かが、足りないのだ。それが解らない。
おれは悔しくって、絵から離れた縁側で、塗れたままの洗い髪をタオルで掻き毟る。
ネジは肩を竦めて、何も言わないでおれの目の前にオルゴォルを差し出してきた。この前から、ずっとネジが作っていた新しいオルゴォルだった。
「完成したの?」
つい嬉しい声を出してしまって、悔しい気持ちになる。
不安の固まりに圧し掛かられていると、ネジがおれよりオルゴォルのことばかり考えていることを恨みたくなるのに、一度不安を脱してしまえば、やはりネジのオルゴォルが大好きだと思ってしまう。
(絵の中のネジ、目を開けさせてやれば良かった)
結局、オルゴォル狂のネジが、おれの一番好きなネジなんだろう。
改めて認めてしまえば、悔しい反面、すごく落ち着く。
(オルゴォル作れないネジなんて、ただの性格破綻した社会不適合者やしな)
ぷぷっと笑い声を漏らしたら、ネジが変な顔をした。
おれはニヤニヤしながらネジの新しいオルゴォルを鳴らした。いつだって、ネジの音を聴くと心が和む。おれはすぐに嫌な笑い方を止めて、穏やかな表情になった。
ああ、これいいなぁと思った。
誰にも邪魔されずに絵を描き続けて、描き終わったら、ネジのオルゴォルを聴ける。最高に、
「しあわせ」
緩み切った顔でネジにそう言うと、ネジも何だか嬉しそうだった。
「オマエ、一番バカ面さらして聴いてくれるから、見てて楽しいわ」
そんな憎まれ口叩きよるネジは、やっぱりオルゴォルくらいの取り柄がなかったら最低な奴。
「いい音聴かせてくれたお礼に、絵の中のネジくんに、ぶらじゃぁを着せてあげよう……」
「いらねぇっつの」
怒ったように言う割りには、ネジはまだ笑っている。絵を褒められたおれと同じだ。
おれが絵を描かなくなったら真っ白になるのと同じように、オルゴォルをなくしたネジも、何にもなくなるんだろう。
「……何か物足りないけど、このまんまでええかな」
理想郷とは少し違ったけれど、名前なんて、絵と合わないのなら変えてしまえばいい。
おれはオルゴォルを抱えてしあわせな気分のまま、そう呟いた。今は自分に余裕があった。
ネジは何にも言わないで、じっとおれの絵を見続けた。
ネジがあんまりおれの絵を気に入ったから、絵の提出は明後日にしようと思い、おれはネジのオルゴォルの音を聴き続けた。



その夜、夢を見た。
おれの指先が全て切り落とされる夢。
夢なので痛みが全く感じられなかったのだけが幸いだ。おれの両手の指先は残らず切り落とされていた。切断部分から溢れるように血が流れ出てくる。夢の中で気を失いそうになった。
気を失いそうなおれの耳に、ネジのオルゴォルの音が響いている。
オルゴォルなのに、感情豊かなネジの音。大好きな音色。
大好きな音色が、流れ出るおれの血の上に響いている。いつもと変わらない美しい音で。
(まるでおれのことは関係ないみたい)
おれは大声でネジを呼んだ。オルゴォルがあるのなら、必ず側にいる筈だ。
「ネジ……」
ネジは相変わらずの背中をおれに向けて、そこにいた。
「ネジ……」
呼んでも振り返らない。
それでも、何故だかホッとした。
ネジがそこにいる。オルゴォルを聴かせてくれている。
なら、それだけで充分。
指先はなくなっても、その気になれば絵は描けるのだ。あとはネジの音さえあれば。
おれは安心して、血の海に倒れて、ネジのオルゴォルに耳を澄ませた。



(痛い夢見たァ……)
目覚めて真っ先にしたのは、十本の、指の有無の確認だった。きちんと掌にくっ付いていた。
「良かった……」
思わず口を突いて出る。多少嫌な機能がついていても、指が揃ってるなら、それ以上の不満はない。
(今日から、指のこと悩むの、止めよ……)
指がなくなったら、絶対に絵を描くのに苦労する。絶対に嫌だった。
おれはベッドから転げ落ちるように抜け出して、部屋の外へ出る。居間にある絵のことが気になった。
居間を覗いて、おれは全身粟立つような恐怖に見舞われた。
何であんな夢を見たのか、理由が解った気がする。予知夢、とかいう奴だ。
居間には、岡本さんがいた。
おれのカンバスの前で、パレットナイフ片手に、彼女はじっと立っている。
ネジはと言うと、例によって壁際のオルガネットに向き合って座っていて、彼女の存在に気付いていなかった。オマエは痴呆老人か!?
「何してんの!?」
叫んで、おれは彼女に突進していった。訊かなくても解ってるけど。
ネジの絵なんて描くんじゃなかった! 切実にそう思う。数日前の自分は何を考えていたのか、今じゃそっちの方がさっぱり解らない。ネジの絵なんて描いて放って置いたら、岡本さんが怒るに決まってるのに。
「岡本ぉ?」
ネジがボケた声を出しながら振り返るのと、岡本さんがパレットナイフを振りかざすのと、おれが絵と彼女の前に滑り込むのとが、ほぼ同時に起こる。なのに、おれの目にはそのどれもがスローな動きで捕らえられた。
(死ぬかも……)
軽く、本気でそう思った。本気になったら、おれの反射神経はめちゃくちゃいいけど、けど運動のセンスは全くないから。
寝惚けていたし、自分がどう動いていいかよく解ってなかったらしい。おれは岡本さんからパレットナイフを取り上げるつもりでいて、何故だか気付けば畳に仰向けに倒れていて、上から倒れ込んできた岡本さんの、その手にあったパレットナイフが振り下ろされる軌道に、ばっちり入り込んでしまっていた。
後にネジ曰く、
「オマエの声がして振り返ったら、岡本が絵の前にいて、パレットナイフ?あれを振り上げてた。で、その後、オマエが駆け寄ってきて、ドリフのようにすッ転んで、岡本とぶつかって、岡本の下敷きになって、ナイフが腕にグサーッ。一歩間違えば首に刺さってて事故死確実」
いやぁぁ。
寝惚けたおれは岡本さんの側に行く前に転んで、岡本さんとドミノ倒しになって、しかも彼女の倒れる場所に、自分が先に転がりこんだらしい。
しかしそのときは自分じゃ何が起きたのか解らず、ただ急に視界に天井が映って、腕に痛みがあって、そして自分が描いた絵に血が飛ぶのだけが見えていた。
真っ白いカンバスの、真白い雪の上に、赤が。
(あ)
きれい。そう思った。
夢は、これを暗示していたのかも知れない。
(雪の上に血が飛び、お妃様はこんな子供が欲しいなぁと……)
なんでか白雪姫のフレーズが浮かんだりして、やっぱり寝惚けていたと思うのね。
「何やってんだよ、おい!」
「一井君!!」
ネジと岡本さんが叫んでいたが、おれの怪我は死にそうなもんじゃなかったし、おれはそれよりも絵のことが先だった。
「これや……」
おれは呟いて、起き上がる。腕に痛みがあったが、目はカンバスに付いた血から離せない。
真っ白い雪、真白いネジ。そこに赤が何てきれいに映えるんだろう。
飛び散った血は、まるで雪の結晶のようなカタチをしていて、景色に最高に似合っていた。
ただ、偶然飛び散っただけでは、この赤は完成しない。
描き直さなきゃと思って、おれは手元を探った。道具が無きゃ、描けない。
(でも絵の具やないで。この色は、)
天然の血の色だから、出せる色。
おれは自分の傷付いた腕を見た。血がだらだら出ている。結構深い傷なのかなと思ったが、とにかく色があるのが有り難い。おれは血を指に取って、カンバスに載せた。
途端に背後のふたりが黙り込んじゃった気もするけど、まぁいいや。
おれはもうその後は、一心不乱に雪の結晶を描き込んだ。細かい部分は筆を使って、手の甲にまで垂れてきていた血を使って、描いた。
カンバスの中、死んでいた世界に暖色が入り、文字通り血の通った世界が現れる。
真白い雪を、赤い雪が温かく照らす。
(世界を埋め尽くす雪が、そもそも温かいもんなんやね)
これがおれの理想郷。
失いがたいもの。失いたくないもの、失いたくても絶対におれから離れてくれそうにないもの、大事なもの。全部を閉じ込めて、おれのものにするなら、おれの血と肉で埋めないと駄目だから。
息絶えそうなくらいの大量の熱い血で埋め尽くす。
そして完成する理想郷。
「……で、けた……」
呂律が回ってなかった。おれは筆を握ったまま、ばったり倒れた。完成して力尽きた。
岡本さんが悲鳴を挙げたが、ネジは「貧血だよ、こいつ」と呟いた。
ああ……。絵ェ描くのって、楽しい。



後に岡本さん曰く。
「本気で絵を刺す気なんてなかったわよ! ただ男同士で絵を描いたりモデルしてるのが気持ち悪かったし、悔しかったのもあって、ちょっと刺してやりたくなって。でもナイフを持って、刺したつもりになってただけよ! そしたら一井くんが勝手に飛び込んで来て、勝手にナイフに刺さったんじゃない! そっちの失敗で、危うく人殺しになるところだったのよ!」
さっき謝ったのにぃぃぃ……。
おれは心地よくぶっ倒れたのを叩き起こされて、居間に布団敷かれて、横にさせられた。
岡本さんが腕の怪我に丁寧に包帯を巻いてくれる。ネジは半分面白がって、おれの頭を小突き回した。
「オマエ、とろいのは発音だけじゃなくて、動きもとろかったのな。気の毒な奴」
ほっといて……。
おれは岡本さんに包帯を巻かれながら、ステレオで笑われたり怒鳴られたりする羽目になった。
おれはパレットナイフで傷付けられた腕を覗く。岡本さんが丁寧に手当てしてくれたとは言え、結構酷い傷だった。首とか手首とかの、脈を切らなくて、ラッキィだと思う。
「わたしはね、他人の作品壊すのは、螺子くんのオルゴールで懲りたのよ」
岡本さんは自慢にもならないことを言う。ネジは嫌そうな顔をして、つん、と外方を向いてしまった。まだ許さないつもりらしい。子供みたいな奴。
岡本さんは少し居心地悪そうになった。おれは、さっき転ばせて悪いと思っていたし、彼女に声を掛けた。
「岡本さん、さっき本当は何しに来てたの?」
ネジがおれのこと睨んだけど、無視した。岡本さんは使い終わった包帯を片付けながら、言った。
「螺子くんにオルゴールの修理で、訊きたいことがあったの。こないだ言われたとおりに、自分で直そうとしてるんだけどね、アンティークだからなんか緊張しちゃって、怖くって」
「大学持ってって、教授に聞けばいいだろ。広瀬とか、超ひまそうだし」
「やだよ! 広瀬先生なんて!」
「なんでだよ!」
ネジと岡本さんが睨み合う。なんか、痴話喧嘩みたいに見える。
(きっと岡本さん、ネジに逢いたかったんやろうなぁ)
解ってやれよ、ごんぞう(笑)。
おれは薄く笑って、布団の上にこてんと倒れた。ふたりはびっくりしておれの具合を訊ねてきたけど、おれは別にただ疲れただけだった。少し寝ると言うと、ふたりとも喧嘩を止めて静かにしてくれた。
「二階行かなくても平気か?」
ネジが気を遣うように言ってくれたが、おれはかぶりを振る。
「ここがええの」
ここなら絵があって、オルゴォルがあって、ネジがおって。
(やっぱ、こっちが理想的かな)
我ながらいい加減なことを考えつつ、おれは幸せな気分で目を瞑る。
現実が理想郷だと思えるなら、おれって相当しあわせもんだと思う。
(神様とかいなくてもええわ。こんだけ幸せやったら)
アホみたいに考えて、おれはスヤスヤ眠りにつこう……とした。
だけど枕元で、岡本さんが冷静に仰ってくれた。
「この絵……きれいだけど、血は時間が経つと変色しちゃうから、そのうち雰囲気変わるよね」
「だろうな。けどもう明日提出だし、描き直せねーだろ。間に合わねーモンはしょーがねぇ」
ネジまで冷静になって囁いて、おれは飛び起きるしかなかった。
神様、おったら助けて欲しいわ……。



「ニライカナイ」 終

書架


Copyright(c) 2005 sikabanekira all rights reserved.
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送