夏の葬式

書架







歪んだ旋律。壊されたオルゴール。流される空涙。
俺に投げ付けられた、見当違いの言葉。
『ニシ君はオルゴールが好きなんじゃないのよ。だから涙も流さない』
そう言うクラスメイトから流れたのは、マスカラだらけの黒い涙。



 そんなのはホンモノじゃないと感じたのを覚えている。そんな涙なら、絶対に流さないと強く思った。
(そもそも、どうやって泣くんだった?)
 泣けと言われても、泣き方なんてとっく忘れた。泣いている奴だって、この年になれば周りに見たこともない。嘘泣きをする輩は、信じられないことに時々いるが。
 俺は深く溜め息をついた。砕けたオルゴールが目の前にある。壊されたオルゴール。
 鳶色の木の箱は崩壊して、機械装置ムーヴメントは部品が分解していた。俺は木片を紐で括りつけて無理矢理箱の形に戻し、その中にムーヴメントを適当に放り込んだ。
 そしてオルゴールの箱をそっと撫でて、また溜め息。
 これを直すべきか、捨てるべきかで、少し悩んだ。
 一度ここまで壊れたものをまた無理に直すのは、オルゴールが可哀想な気がする。かと言って捨てるのは、オルゴールに失礼な気がする。
 オルゴールに意識があるなんて思わないが、だが敬意を払うことに疑問はなかった。このオルゴールを直すのも捨てるのも躊躇われたが、だが放っておくこともいけない気がして、俺は八方塞がりになって溜め息を繰り返した。
『ニシ君はオルゴールが好きなんじゃないのよ』
 彼女が言ったのは、敬意とは違うものなのだろうか。あのクラスメイトは、一体何を以てオルゴールへの愛情と認めるのか。
『だから涙も流さない』
 泣けば、いいのか。
(泣き方なんて、とっくに忘れた……)
 俺はオルゴールを抱えて、唇を噛んだ。
 気付けばいつからか、泣かないカラダ。
 ずっと昔、祖父に言われた言葉まで反芻してしまう。
『お前は意地っ張りだからなぁ』
 まだ俺がよく泣いていた頃。泣いている癖に「泣いていない」と言い張るくらい、自分でうんざりするくらいよく泣いていた頃。早く泣かないで済むオトナに成りたいと、切実に願った。
 だが祖父は、そんな俺を見て、呆れたように言うのだった。
『馬ァ鹿。泣けなくなると、ロクなことになんねーんだぞ。お前みたいに意地張ってると、将来本当に泣けなくなる。そうなったら、絶対どっか歪んで来るぞ』
 何言ってやがるジジイと、未だに思う。
(何が歪んで来るって?)
 今日も泣けたら良かったのだろうか。
 壊れたオルゴールを見て。『壊れちゃった。哀しい』って。
 出来る訳がない。
(もう子供じゃない)
 オルゴールに対して愛情がない訳じゃない。好きでなければ、苦労してオルゴールを作ったりしない。けれども、だからと言って壊れた物を「壊れた」と嘆く年じゃない。
 形有るモノはいずれ壊れる。幾度も使い古された言葉だが、確かにそれは真理なのだ。決して例外は起こらない。オルゴール、家屋、人間。どれもいつかは壊れるモノ達。
 彼ら形而下の存在は、詰まる処、生と対応している。カタチがあると言うことは、生きていることなのだ。そして生は死と相対している。生まれたら、次は死ぬ。カタチを持って生まれた人間は、やがて死してそのカタチを失う。形有るモノはいずれ壊れる。それはオルゴールだって同じことで。
 昔はその不条理に涙を流して逆らったし、生きていた過程を思い、惜しんで泣いたこともあった。
 けれどそれはコドモの話。
(もう子供じゃない)
 何も知らない訳じゃない。それなのにコドモの振りをして泣くのは、結局泣いていることにすらならないのだと俺は思う。あの黒い涙みたいに。
 人前での自己主張の手段としての涙。それはとても醜かったし、それを壊れたオルゴールの手向けとするのは、俺の中でどうしても許せなかった。
 どうせ子供らしく純粋に泣けないのならば、いっそ泣かない方がいい。
(泣いたって、何も起こらないんだし)
 泣いて奇跡が起きるのならば幾らでも泣いてやる。だが、そんなことは起きないのだ。
 俺は壊れたオルゴールを小脇に抱えて、鞄をもう片手で引っ掴んで、溜め息とともに教室を後にした。


 校舎の外は夏の気配が満ちている。
 中庭の赤煉瓦の階段を下りていくと、脇に植えられた葉桜から、今夏初めての蝉の声が聞こえてきた。鳴き慣れていないのか、途切れ途切れの、酷く不器用な鳴き方だった。
 葉桜が音をたて、昼の名残の熱を孕んだ風がついでのように俺の前髪を撫でていく。
 俺は空を見上げた。薄墨色に近い青色の空を、物騒な黒い雲が舐めていた。微かに遠雷の音も耳に届く。
 夕立の気配に、俺は早々に駐輪場へ向かった。無数の単車や自転車の置かれたそこで、俺のブリキの自転車は妙に古臭くてよく目立つ。
 俺は鞄を背負って、オルゴールを落とさないようにしっかり抱えて自転車に乗った。
 大学から自宅に着くまで要三十分。だが夕立はそれより早く訪れた。

『雨は神様の涙なんだよ。知ってるか?』

 アタマは悪い癖に雑学だけはやたら豊富な祖父の言葉を思い出す。
 だから何だ、とムカついた。もう少し後で泣きやがれ。自宅まで数分の処で、ついに小雨が降りだした。
 俺は小さく舌打ちして、オルゴールを濡らさないように抱え直す。近道をして自宅の庭に乗り付けようと思い、俺は自転車を方向転換して、普段は近寄らない家の裏手の通りへ向かった。
 俺の家の裏手には小山がある。近隣の者が「獣道」と揶揄するような、狭くて細い、街灯も設置していない道を挟んで、小山とウチの庭は隣接している。痴漢が出るとか何とかで、滅多に人が通っている処を見たことがない道だ。小山の持ち主の関係か、道の中途に山を僅かに削って小さな赤鳥居とお稲荷さんが作られていて、それがまた古くて汚くて、余計に不気味な雰囲気を醸していた。
 雨足が次第に強まってきていたので、俺は迷わず獣道を自転車で突っ切った。だが、俺は自宅の裏庭の戸口を前に、自転車を止めざるを得なくなった。
 狭い獣道の鳥居前に、人がうずくまっていた。薄暗い路地で、その人が着ている鮮やかなコバルト・ブルーのシャツがよく目立つ。小柄な人だった。荷物を路上に放り出して、何かを掌で握り込んだまま、じっとうずくまっている。
 俺は、彼のシャツの色に見覚えがあった。確か大学の構内で何度か見掛けた。知り合いではないが、恐らく同じ処の生徒だろう。
 俺は自転車を止めた。油が切れているので耳障りなブレーキの音が派手に路地に響く。その所為で彼は驚いたように顔を上げて、こちらを見た。俺は彼を見て、息を呑む。
 彼は泣いていた。
 そのやけに静かで奇麗な泣き顔に、驚いた。
(居た)
 彼の涙は、クラスメイトの黒い涙とは明らかに違う。一目で解かった。
 彼は俺を一瞥すると、無言で道の端へ避けた。自転車がやっと通れる幅が空く。
 だが、俺は自転車を止めたままだった。
「……何で泣いてんの?」
 他に会話の取っ掛かりが見付からないとは言え、我ながら無粋な質問だった。不躾な質問に彼が怒るかなとも思ったが、だが思いの外、彼は素直に答えてくれた。
「コレ、壊れたんやもん」
 舌足らずな関西弁だった。彼は俺を見上げてくすんと小さく鼻をすすって、自分の握っていた掌を、俺の目の前で開いてみせる。彼の手の中に、真っ二つに割れた小さな白磁人形が載せられていた。割れてはいるが、人形は小指くらいの大きさの、バレリーナと思しき形状をしている。人形の先には細い鎖と、丸い輪っかが付いていた。
「キーホルダー?」
 俺が訊くと、彼は頷いた。掌を出すと、彼は握っていた細かい破片ごと、壊れた人形を俺の掌に移した。華麗に舞うバレリーナは哀れ、腰から上下半分に割れて別れてしまっていた。彼は寂しげに言う。
「気に入ってたのに…落っことしたら、ぱりん、て」
 オルゴールが壊れたばかりの俺は、彼を気の毒と思う反面、驚き呆れた。
「…………」
 彼は恐らく俺とそう年が変わらない筈だ。
(泣くか? 普通)
 俺が横目で見ると、彼は手で目許口許を押さえて、目をしきりに瞬いていた。ひょっとして、まだ泣く気か。
「……直してやろうか」
 放っておけばひたすら泣いていそうな彼を見過ごす気になれない。どうせこのバレリーナの壊れ方は単純だったから、直すと言ってもくっつければ済むだろう。
 俺がそう申し出ると、彼は瞬くのをぴたりと止めた。
「ほんま?」
 眼を大きく見開いて俺にそう訊ねてくる。俺は頷いた。
「……ついでにウチで雨宿りしてけば? ここに居たんじゃ、風邪ひく」
雨足は少しずつ強まっていた。彼のコバルト・ブルーのシャツが斑模様になっている。
俺の言葉に、彼は一瞬戸惑ったような顔でこちらを見上げた。だが、その刹那、真白い閃光が一帯の薄暗闇を照らした。
「……雷だ」
 俺が言わずもがななことを呟くと、彼は慌てた様子で自分の荷物を拾い出した。


 彼を連れて自宅に上がった。独りで暮らすには広過ぎる、やたらでかくて古い日本家屋。何故か広い廊下を通って、微妙に低い鴨居をくぐって居間に入る。
「わぁ」
 彼が驚嘆の息を漏らした。居間には大量の自動演奏装置が置かれていた。
 オルゴール、オルガニート、オルガネッタ。
 祖父の趣味のアンティークから俺が作ったオルガニートまで、所狭しと並んでいた。
「適当に、座って」
 俺は壊れたオルゴールと鞄、それとバレリーナ人形を居間中央の卓袱台に置いた。
 それから縁側に面したガラス戸を開け放ち、空模様を窺う。軒下に吊るされていた風鈴が、雨空に虚しかった。
 夕立ならばすぐ止むだろうと判じて、俺は戸を開け放したまま、部屋に溜まっていた、昼の熱を帯びて淀んだ空気を動かす。
 部屋を振り返ると、彼は熱心にオルゴールを見て回っていた。彼は好きにさせておいて、俺は卓袱台の前に座り込んで、バレリーナの修理を始めた。
 作業は簡単で、十分と掛からなかった。人形は上手い壊れ方をしたらしく、断面は奇麗で、破片も少なかった。雑多な工具入れを卓袱台の下から引っ張り出して、中の接着剤で人形を上下くっつける。それからパズルのように、破片の形を見極めて、過たずにバレリーナを補っていく。
「こんなんでどう?」
 接着剤の乾いていない人形を適当な新聞紙の上に載せて、彼にそう声を掛ける。
 彼は熱心に万華鏡オルゴールを見詰めていた。
「気に入ったものでもあった?」
「あ、うん」
 彼は二度目の俺の呼び掛けで、我に返ったように俺の顔を見た。それから机上のバレリーナを見て微かに笑顔を浮かべた。
「すごい……元通りだ」
「まぁ、近くで見たらヒビはバレるけどな。接着剤さえ乾けば、いちお使える」
「ありがとう」
 彼は目を細めて俺を見て、そう言った。
 俺は関西人のことだから「おーきに」くらいは言ってくれるかと思っていたので、少し肩透かしを喰らった気分だったが、まぁ悪い気はしなかった。
東莉とうりの人?」
 大学名を出すと、彼は果たして頷いた。彼は俺を見たまま言う。
「ねぇ君、工芸科の、ネジさん、でしょ?」
 それは同じ学科の連中が使う、俺の徒名だった。俺の苗字を単純に読んだ徒名で、本来は螺子にしと読むのだ。
 俺は首を傾げて彼に訊ねた。
「何で知ってんの」
「ネジさん、オルゴォル作るのが上手なんやって有名。おれの学科にも噂が来てるから」 
「へぇ……。学科、どこ?」
「おれ、美術学科」
 それっぽい顔をしている。俺が続けて名前を訊ねると、彼は律儀に全部名乗った。
一井蝶子いちいちょうこ
「チョウコ? 変わった名前だな」
 男なのに、と言う言葉は飲み込む。所詮名前は名付け親のセンスなのだから、彼に言ったところで仕方ないのだ。
 彼も自覚はあるらしく、俺の言葉にこくりと頷いた。
「珍しいから、皆おれのことチョーコって呼ぶ」
「そ。じゃあ蝶子ね」
 呼び名を決定してから、俺は彼に訊ねた。
「蝶子サン、梅酒好き?」
 雨はもう暫く止みそうもない。


 居間の隣の台所に入って自家製の梅酒を出して、氷とグラスを盆に載せて、また居間に戻る。一井蝶子が、俺の壊れたオルゴールをじぃっと見詰めていた。
「コレ、何で壊れたの」
「…………」
 俺は黙って卓袱台の上から鞄を放り投げると、そこにグラスを置いて氷と梅酒を入れた。彼に勧めると、彼は礼を言って受け取り、それからもう一度オルゴールを見た。
「まだ新しそうなのに、勿体無いね」
「そうだな」
「ネジさん作ったの?」
「うん」
「…………」
 彼はオルゴールと俺を見比べて、黙って梅酒を舐めた。俺も一口呑む。最近の食事代わりの一杯だった。まだ氷が溶けていないので濃い。俺は目を眇めてグラスを置いた。
「そのオルゴール、鳴らしてみる?」
 俺が指差したのは、先程蝶子が見ていた万華鏡オルゴールだ。彼は大きく頷いた。
「貸して」
 俺が手を伸ばすと、彼がそれを慎重な手付きでこちらに寄越す。
 地球儀型の万華鏡カレイドスコープオルゴールだった。台座の上に、握り拳くらいの大きさのガラス地球儀と、短い万華鏡が付けられている。
 「これは誰が作ったの?」
 彼が訊ねてくる。俺は万華鏡を地球儀に対して垂直にセットしながら答える。
 「俺の祖父さん……オルゴール職人なの。これはギフト用に作ってたんだけど、結局自分が一番気に入って、ずっと取って置いてある」
 言いながら、台座の裏にあるネジを巻く。オルゴールが弾き出す独特の音で、『白鳥の湖』が流れ出した。
 それと同時に、モザイク模様の地球儀が回り出す。万華鏡から光を差されて、地球儀は色彩を振りまきながらゆっくりとくるくる回る。黄、赤、青、紫と、極彩色の幻想的な空間が、古臭い卓袱台の上に現れる。
 蝶子は目を見張ってそれに見入った。
 雨音が、意識の中から少し遠退く。
 俺も蝶子も黙り込んで、暫くオルゴールの音色だけが部屋に響いた。
 黄、赤、青、紫。
 極彩色のガラス地球儀の色だけを頭に焼き付けて、俺はそっと目を閉じた。


サンフラワーに、  シグナルレッド、  マドンナブルー、  ベルフラワー


『ニシ君は苦しむことを知らない』


他人の手で落とされた俺のオルゴール。歪んで狂った旋律。狂わされた『白鳥の湖』。
否、違う曲だったかな? まぁいいや。

(どうせアレは壊れてしまったんだから)

 くるくる回る、雨の中のバレリーナ(蝶蝶だったかな)。
 黄、赤、青、紫。原色だらけの影絵遊びだ。
 俺の影だけ歪んでる。

『泣かないと、歪んで来るよ』

 それはきっとオルゴールの旋律みたいに、歪んで狂って、廻ってる。
 『歪んで来るって』。くるくるくる。
 モザイク模様のガラス玉。

『御免ね、手が、滑った』

 謝罪するクラスメイトが笑っていた。
 あの時、俺は何を考えたんだろう。確か酷く腹が立って。目の前が真白くなった。
 何故だと思った。俺のオルゴールが落とされた理由は、何だ?
 その理由は、恐らくクラスメイトの笑いにあった。それは奴の恐るべき無知。


にし君ハ私ホド苦労シテおるごーるヲ作ッテイナイ。
ソレハアナタガ真剣ニ取リ組ンデイナイカラデショウ?
 


もう一度奴が俺のオルゴールに触れようとしていたから、俺は奴より先に手を伸ばして、


ガラス地球儀が廻ってる。


オルゴールを掴んで(サンフラワーに)、思い切り(シグナル・レッド)、それを床に叩き付けて(マドンナ・ブルー)、ばらばらに壊した。


べ・る・ふ・ら・わ・ぁ


くるくるくる、原色のバレリーナが笑ってる。


 クラスメイトが泣き出した。鬱陶しい、マスカラに染まった黒い涙。

 『ニシ君はオルゴールが好きなんじゃないのよ。だから涙も流さない』
 
 それさえも無知。
 俺がどれだけオルゴールにわされたか知らない癖に。オルゴールを大事にしていたのか知らない癖に。
 解からない奴には触らせない。だから壊した。逆説的で単純な、子供染みた俺の感情。

『意地張ってると、泣けなくなるぞ。泣けなくなったら、歪んで来るぞ』

 その歪みが俺のオルゴールに向けられた。

『何で泣いてんの?』

 赤鳥居の前で、コバルト・ブルーのシャツを着て。

『コレ、壊れたんやもん』
狂、狂、来る。

 壊れたバレリーナが廻ってる。




「なぁ」
 俺は口を開いた。蝶子は夢から覚めたような目で、オルゴールから視線を離した。
「…泣けると、どうなる?」



 俺の単純な質問は、脈絡もなく投げ付けられた側には解かりにくかったらしい。
 蝶子は首を傾げて、小さく唸っていた。
 俺は汗をかいているグラスを持った。氷が大分溶けていた。一口呑んで喉を湿らせてから、俺は蝶子の答えを待たずに喋り出した。
「そのオルゴール、今日、俺が壊したんだ」
「…………。何でぇ」
 蝶子は驚愕の表情を見せた。俺は話を続ける。
「それ、授業で作ってた。今日、俺がクラスで一番早く完成した」
「一番早く壊したの?」
「うん」
 俺は何だか可笑しくて、少し自嘲的に笑った。何でこいつにこんな話してんだか。
(そう言えば、話す相手もロクにいないんだ)
 不図、そんなことに気付いた。俺は一瞬言葉を失う。
 面倒な人間関係が鬱陶しくて、友人らしきものは作らなかった。それは今日のような事態を回避しようとしての自衛策だった筈なのに、何の効力も発揮していなかった。
「ネジ?」
 蝶子が俺の顔を覗いてくる。ガラス地球儀はとっくに止まっていた。
「ああ…」
 俺は顔を上げて、こちらを見ている蝶子を見返す。
(まぁいいか)
 折角話し相手が目の前にいるんだから。
 俺はもう一度自嘲気味に笑って、再び口を動かした。
「……オルゴールが完成した時、隣の席にいたクラスメイトが、わざと俺のオルゴール落としやがったんだよなぁ」
「酷い……。何で」
「向こうは製作が遅れてた」
「八つ当たり?」
「多分」
 俺は頷いて、良い感じに薄まった梅酒を啜る。
「八つ当たり半分、オルゴール床に落とされた後、俺が『ぷちっ』てなって」
「……キレたの?」
「うん……。落とした奴がまた俺のオルゴールに触ろうとしたから、それ取り返して。『てめぇには二度と触らせねぇ!!』って、自分で壊した」
「…………」
 空気で、呆れられてるなと解かった。さっきは俺の方が蝶子に呆れていたのに。
 俺は何も言われないウチに、また先を続ける。
「そしたらクラスメイトが泣くんだ。『オルゴール可哀想』って」
 蝶子が眉を顰た。
「自分が先に落とした癖に?」
「そう。オマケにそいつが言うんだ。『オルゴール壊しても泣かないなんて、アンタはオルゴールのこと好きじゃないんだ』みたいなことをさ」
「はぁ」
「でも、何かそう言うのってよく解んねぇ」
 俺は一気に梅酒を半分ほど飲む。
「泣くとどうなる?」
 先程と同じ問いを繰り返す。蝶子はそれでもやはり眉を顰て困った顔になった。
 俺は黙って彼の答えを待った。
 外では、雨足が弱まってきているらしい、音が静かになってきていた。
「……泣かないと、嫌なこと、いっぱいカラダに溜まるやんか」
 やがて彼はそう言った。まだ少し困ったような顔をしていたが、何か言葉を探すように、彼は断片的に喋る。
「ネジは、オルゴォルのこと好きなんやろ?」
 急に訊かれて、俺はちょっと顎を引いた。
「……好きだよ」
 あのクラスメイトも、蝶子くらい解かってくれてたら良かったのに。
 蝶子は重ねて訊いてくる。
「壊したの、自分が一番哀しかったんやろ」
 その通りだった。俺は頷く。
 蝶子は溜め息を漏らして、軽く俯く。
 何だよ、と思って睨むと、彼は俺の視線に気付いたかのように目線を上げた。
「それやったら泣けばええやん」
「何で」
 泣きそうな顔でそんなことを言われても、俺には理由が解からない。
「何で泣かないといけないんだよ。皆すぐそー言うけどさぁ」
「何でって言われても……」
 蝶子は首を傾いで、ちょっと唇を尖らせた。
 「理屈とちゃうよ。そう言うのは」
 だが俺は納得がいかない。何だか、泣かない奴には解からない、と言われたような気になった。俺は卓袱台に身を乗り出す。
「一体泣いてどうなんの? 奇跡でも起きるワケ?」
 梅酒で酔っ払った訳じゃないが、何だか子供地味た言い方だと思う。
 蝶子はますます困った顔で、俺を恨めしそうに睨んで答えた。
「起きるかもしれないやん」
「……起きねーよ」
 何だ、そりゃ。
 俺は勢い乗り出した体を元に戻して、残りの梅酒を呑み干した。
(泣く奴は泣くし、泣かない奴は泣かなきゃいいのか)
 俺は勝手に自己完結して、溜め息をついた。第一、何で俺は泣くことなんかに拘わったんだか。
(ジジイが変なこと言うからだ)
 と、何年も前のハナシに怒りの矛先を向ける。奴が旅から帰ってきやがったら、殴り飛ばす。
 だがその間にも蝶子は話の続きを考えていたらしい。俺が二杯目の梅酒を自ら注いでいた時、彼は急にまたぽつりと言った。
「奇跡も起こるよ」
 俺が彼を見ると、彼は縁側の外を見ていた。俺もそちらに視線をやる。外はまだ微かに雨が振り続いていたが、もう終盤に近かった。
「雨が神様の涙とか、よく言うやん」
「はぁ」
 何処かで聞いたセリフだ。
 蝶子は雨を見て目を細めて、囁くように言った。
「……だから、雨って奇跡なんと違う?」
「はぁ?」
 俺は思わず蝶子を振り返った。彼は俺に振り返られて、はっとしたように目を開けて、そして赤面した。慌てたように口許を掌で押さえて、彼は叫ぶ。
「うわっ、おれ今クサイこと言うたな!」
「否……。かっこよかった」
 かなり。俺はちょっと感動して、首を横に振って、彼の自主ツッコミを否定する。流石美術学科、思考回路がまるで俺と違う。
「そうか……。そう言われてみると、奇跡だよなぁ……」
俺は縁側の方へずるずると這っていって、空を見上げてそう呟いた。
「……もしかしてネジ、結構ロマンチスト?」
「さぁ? 何で?」
 俺が蝶子を振り返ると、彼は赤面した顔を両手で押さえて、ううん、とかぶりを振った。変な奴。
 俺は雨が上がりそうな空を見上げた。
(雨上がったら、蝶子帰っちゃうんだよな……)
 今更のように、この家の広さが寂しいと思った。家族も友人も、ここには来ない。
 他人との諍いを嫌って交友関係を絶っていたのに、それでも訳の解からないクラスメイトの嫉妬なんかに当てられて、結局それを愚痴る相手も満足にいなくて、自分の首を絞めただけだった。俺は溜め息をついて、卓袱台に戻った。
「このオルゴォル、どうすんの?」
 赤面の直った蝶子が、俺の壊れたオルゴールを指してそう言った。俺は肩を竦めた。
「悩んでるとこ……。直すのも捨てるのも、どっちも嫌だし」
「直せないの?」
「否。バラバラになっただけだから、組み立て直せばいいんだけど……。それでも歪んだ部品はどうしても交換しなきゃならないし、それだとコレと同じものは出来ないだろ。それだったら、コレはこのままにしといた方がいいかなって思う」
 俺がそう答えると、蝶子は俺を見て、目を瞬いた。
「ほんまにオルゴォルが好きなんやね……」
「? うん」
「じゃ、コレはこのまんま、とっとくんだ?」
 蝶子がそう言うが、俺はそれも否定した。
「でもとっといたって、やっぱオルゴールが気の毒な気がしてさ……。直さないし使えないのに、このカッコ晒させとくのって……」
「どうしたいねん……」
 蝶子が俺をちらりと見る。俺もまだ何も考えていなかった。いっそと思って蝶子に訊く。
「どうしたら一番いいかねぇ」
「……ん……」
 蝶子は何を訊いても真面目に答えようとするらしい。訊いてばかりの俺は少し悪い気がして、彼にも二杯目の梅酒を注ぐ。
 「直すのも良くないし、捨てるのもあかんか……」
 彼はグラスを両手で包み込むようにして持ち、暫くふぅんと唸って考えていた。
 蝉の声が、庭の方から入ってきた。
 「……雨、止んだみたい」
 俺は縁側に立って空を眺めて、残念な気持ちでそう言った。空はもう夕暮れだったが、黒い雲は何処かへ消え去っていて、奇麗なものだった。
「ほんまや。夕映えやねぇ」
 やってきた蝶子も俺の隣に立って、空を見て呟いた。
 彼がもうそろそろ帰ると言い出すかと思って、俺は黙り込んでいた。
 だが彼は予想に反して、先の俺の質問に答えてくれた。
「……埋めるのって、マズイ?」
 俺は彼を見下ろす。彼はいつの間にか、空ではなく庭の地面を見詰めていた。恵みの雨でしっとり濡れた庭を見て、彼は言った。
「お葬式するの。オルゴォルの」
「……ああ」
 俺は庭を見て目を見張る。それも、俺には考え付かない答えだった。
「供養かぁ」
「機械埋めても、しゃあないかなぁ」
 殆ど二人同時に呟く。お互いに、ちらりと視線を交わした。暫く、沈黙。
「……理屈じゃないっしょ」
 やがて俺がそう言うと、蝶子は微かに笑った。





 雨が止んで、涼しい風が辺りを過ぎていく。風鈴がちりん、と鳴った。
 俺は蝶子と一緒に庭に下りて、縁側の真下に小さな穴を掘った。そこに祖父の風呂敷で包んだオルゴールを入れて、上から土を被せる。
「……ええの?」
 念を押すような蝶子の言葉に、俺は苦笑した。
「ええの」
 真似して返すと、ちょっとだけ受けた。
 オルゴールを埋めて、俺は手を払って立ち上がる。それから少し考えて、合掌するのは止めて、目を閉じて短い黙祷だけした。俺が目を開けると、蝶子も俺に並んで目を瞑っていた。
 風鈴が再び鳴る。
 空を見上げると、夕映えがえらく奇麗だった。ペンキをひっくり返したみたいなオレンジ色の空に、薄墨に近い青色が微かに混じっている。そこに僅かに浮かぶ、紫色に縁取られた雲。
 (黄、赤、青、紫)
 俺は目を細めて空に見入った。
 オルゴール相手だと言うのに、葬式の後は、何故か物憂い喪失感が付き纏う。
 壊れた時点で失っていた筈なのに、埋葬によってはっきりと区切りを付けられた所為だろうか、急に心に、穴が開いたみたいな痛みが現れる。
 否、実際オルゴールに未練があったのだろう。なまじ残骸が目の前にあったから、それに気を取られて、自分の本心に気付いていなかっただだ。俺はずっと、壊れたオルゴールを嘆いていた。
 (終わらせなきゃ)
 俺は子供じゃないんだし。自分で壊そうと思って壊したんだから。
 責任は自分が取る。自分で壊しておいて自分で泣くなんて、そんな純粋に卑怯な真似はもう出来ない。痛みとか後悔とか全部、自分の中で消化する。
(あ、そっか……)
 その為に埋葬したのだと、不図気付く。
オルゴールを供養する。それと同時に、俺の中のオルゴールへの想いも埋葬するのだ。
すぐに消える訳がないから。理屈じゃないから。
 ただ、カタチを失ったものへの後ろ向きな未練を、カタチある俺がいつまでも持ち続けているのは、それは二つの領域を勝手に往来するようなものだ。境界線を汚している。もっと前向きな「思い出」とか、そう言うものに昇華しておかなければルール違反なのだ。
 それを最も分かり易いカタチで、地下世界と現実とで線引きを施す。もう世界が変わったんだからと、それをはっきりさせる為の儀式。それがこの葬式。
(でも、やっぱり理屈じゃないんだよな……)
 俺は地面を見ないように努めた。見たら、またもう一度掘り返して、オルゴールを取り戻したくなりそうだった。
「俺さぁ」
 気晴らしに、何の考えもなくそう言ってみた。別に話すこともなかったが。
 蝶子がどう反応したか、空を見ていて俺には解からなかった。
「……。うーん。もうちょっと、オトナになるわ」
 思い付いたままに、言葉にした。
 「何か、駄目だわ。オルゴールを他人に触られそうになったくらいで、マジギレしてさ。まだまだ修業が足りません」
 また自嘲気味の笑いが込み上げてくる。
 だが蝶子から返ってきたのは、驚くほど真剣で、沈んだ声音だった。
「……オルゴォルが、それだけ好きやったってことなんやろ?」
 また、風鈴が鳴る。
 俺は思わず蝶子を見ようとして、視線を下げてしまう。そこだけ不自然に盛り上がった地面が視界に入った。
(ヤバイ)
 慌てて視線を横にずらすと、自分の土に汚れた手が見えた。
「……。爪、土入っちゃってる…」
 気を紛らわせようと、呟いて自分の手を持ち上げて、まじまじと見詰める。
 その手を、蝶子が片手で掴んだ。
「……何?」
 訊ねても、蝶子は答えない。真剣な表情で、俺の手を握っていた。
 風鈴が鳴る。
 どれだけそうしていただろう。
 やがて、蝶子の頬に涙が伝って落ちた。
「……何で」
 思わず、そう言った。蝶子は俺の手を掴んだまま、絶対に離さない。
「何で泣くんだよ?」
 もう一度はっきり訊ねると、彼は目を瞬いて涙を零した。
「……ネジが泣かない所為や」
 涙声でそう言って、蝶子は僅かに睨むように俺を見上げた。
 俺は何のことか解からない。ただ、蝶子の泣き顔は奇麗だった。
 蝶子は空いている片手で涙を拳で拭った。しかしもう片手では、まだ強く、俺の手をしっかり掴んでいる。
「何で泣かない? 俺にはネジが哀しいの、解かるのに」
 彼は泣きながら、それでもはっきりと俺を睨んだ。
「泣けるか」
 俺は戸惑って、かぶりを振った。
「もう、子供じゃない」
「……理屈とちゃうよ」
 先と似たような問答になった。蝶子は瞬く度に涙を零す。
 何だかそれを見ていたら、胸が一杯になってきた。
 俺の代わりに泣いている蝶子。
「オルゴォルなくなって寂しいんやろ?」
 俺は頷く。
「なら、泣いたらええやん。オルゴォルなくなった分、涙でも補ったら、ええやんか」
 風鈴が鳴る。
 その音色に合わせたように、蝶子の涙が地面へ落ちた。
『泣かないと、歪んで来るぞ』
 涙は葬式と同じだと思った。俺の子供染みた感傷を、流してくれる水葬みたいなもの。
(だから歪むんだ)
 意地ばかり張って、流さないといけないモノをずっと抱え込んでいた。俺の中で葬らないでおいたモノが溜まり溜まって、最後に歪んだ。それがオルゴールにぶつかった。
 俺はオルゴールの墓を見下ろした。相変わらず俺の目から涙は流れない。泣き方なんてとっくに忘れた。
 けれど、蝶子はまだ涙を零していた。俺の歪みを引き受けて、俺の代わりに、何年分かの涙を流す。
 物憂い喪失感の後に、柔らかく締め付けられるような苦しさがあった。
 息苦しいけど、妙に温かい。
(カタチがあるから、味わえるもんか)
 カタチがあるから向こうの領域に踏み込めない。カタチがあるから涙を流す。
 カタチがあるから、手を繋いでる。
「……おい、蝶子」
 名前を呼ぶと、彼はまた涙を拭いてから俺を見る。
 俺は暫く考えてから、一言だけ言った。
「ありがと」
 埋葬案を出してくれたこととか、手伝ってくれたこととか、代わりに泣いてくれたこととか全部引っ括めて、礼を言った。子供みたいな言い方だと、自分でも可笑しかった。
「……阿呆」
 悔しそうに呟いて、蝶子は俺の手を振り払うように離した。
「何だよ……。お礼言ったじゃん」
「ネジの所為で、水分消耗したわ」
 鼻をすすってそう言うと、蝶子は靴を脱いでさっさと縁側に上がる。
「梅酒、もっと呑ませて」
「あれ、まだ帰ンなくて平気なの?」
「葬式やったら、通夜もせな」
 順番逆やけど、とまたしても自主ツッコミを入れて、蝶子は卓袱台に戻った。
(いてくれるんだ)
 久し振りに話し相手がいるかと思うと、またちょっと喪失感が埋まった。
 俺は靴を脱いで縁側に上がる。部屋に戻る前に、ちらりとその真下の墓を見て。
 空を見上げた。夕映えに、夏の空は快晴。
(これも、神様が泣いた後の奇跡かね)
 また口に出すと「ロマンチスト?」って訊かれそうだし、内心で呟くに留める。
「ネジ、氷〜」
 催促されて、やっと俺は居間に入る。
「手ぐらい洗えよなぁ」
「おれ、土に触ってないもん」
「手、繋いだじゃん」
「あ」
「きったねー」
 俺が大笑いしてやると、賛同するみたいに風鈴が鳴った。



「夏の葬式」終

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