残夢の城

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 飛行機が定時に離陸してから、すでに一時間ほどが経過した。
 空は快晴。風も強くない。あと四時間半後には、青い空と白い砂の、暑いヴァカンスの地へ到着していることだろう。
 むかいは、先刻雲の上から見た、ちっぽけな我がクニの姿を思い出し、口の端がむず痒くなる。教室で開く地図帳で見るのと同じ、歪んだ地形だったのを覚えている。それは近くで見る分、もっとずっと醜悪だった。
 あれがかつては黄金のクニと呼ばれた大地だろうか。
 迎は、つい浮かんでくる皮肉げな微笑を手で隠して、正面を向いた。
 不意にひとつ前の座席にいた少女が、背もたれを乗り越えて、迎の顔を覗き込んできた。
「ねぇムカイ兄様、雲の上には、天国があるんじゃなくて? あたし、先刻からずっと探しているのに、ちっとも見付からないのよ。どうしてかしら?」
「おまえ、莫迦だなぁ」
 彼女の隣に座っている少年が、迎には顔も見せずに、刺々しい声を挙げた。
「こんな高い処、酸素が薄いんだ。人なんか棲めるわけもない」
「人じゃないわ。天使様だわ」
 少女はキヤリ、少年はコォリと言う。迎の従兄弟たちだった。
 まだ幼いふたりの会話に、迎は優しく微笑んで、キヤリの問いに答えてやった。
「天使様たちがお暮らしになっているのは、ここよりも、もっと高い世界なんだよ。だから、この雲の上には、棲んでいないのだよ」
「ここより高くなると、ますます生存は不可能じゃないか。最終的に成層圏を突き抜けて、宇宙へ飛んでしまうよ」
 口を開いたのは、コォリだ。幼いのに眼鏡をかけて、その年には不釣合いな小難しい本を読む。彼はまるで小さな学者だった。
 迎は子供らしからぬ彼を叱るわけでもなく、にこやかに微笑んだ。
「違うよ、高いと言ったのは、距離のことじゃないんだ。次元のことなんだが、何と言えばいいのかな……。つまりね、ここは一年生のクニなのさ。ここは一年生のクニの空で、その向こうにあるのは、一年生の宇宙だ。天使様がお暮らしになるのは、六年生のクニのお空なんだ。だからね、この空は何処まで行っても、天国は見付からないんだよ」
 自分で説明しておいて、迎は、こめかみが引き吊るのを感じる。
 『ここに天国はない』
 そうはっきりと言い放った人を、思い出す。
 『君達は愚かではない。しかし信仰心もない。ここに、天国は降りてこない』
「よく、わからないわ」
 キヤリは特に困った風でもなく、にっこりして、一言そう漏らした。
 迎は微笑み直した。
「そうか。説明の仕方が悪かったね」
「あ、ご覧になって兄様。空がとても青い」
 彼女はすっかりご機嫌で、そう叫んだ。迎も窓に目をやる。確かに空は快晴だった。
「素敵ね。空の青は、海の青と、少し違うのね」
 彼女はうっとりと空を見ている。
 また迎は、かの人の言葉を思い出した。

『空と海が混じり合う処に、』

「空と海が混じり合う処に、楽園があると聞いたことがあるよ」
 キヤリは、迎の顔をぱっと振り返る。コォリの方も興味があるのか、座席の横から顔を見せた。迎はふたりを見返さず、窓の向こうを、遠い目で眺めながら、先を続けた。
「そこは青い楽園だそうだよ。そこには青がよく映える白亜の城が建ち、城の中央には大樹が生えている。その木には、人間の実がなると言う」
「人間の実?」
 コォリとキヤリが声を揃えて、復唱する。迎は頷いてみせた。
「木に、人間が実るんだよ。それは天女の如く美しい、女性の姿をしているんだそうだ」
「なんだかこわいわ」
 キヤリが顔を顰めた。
 コォリも難しい顔をしたが、こちらは彼の好奇心が刺激されたときの表情だ。
「それは本当に人間なの? 生物学的に言って、有り得ない生態系だよ」
「さぁ……。これは飽く迄、人から聞いたお話だから」
 迎は眉尻を下げて微笑み、肩を竦めてみせる。
 そのとき、女性のフライトアテンダントが、食事を配り始める気配があった。
「さ、ふたりとも席へお戻り。いい子にしているんだよ」
 迎がそう言うと、ふたりは大人しく正面を向いて座った。それを確認した後、迎の隣、通路側の座席にいた少女が、急に口を開いた。少女は、迎と一緒に、学校の制服を着込んでいる。彼女はキヤリとコォリの姉で、迎とは同じ学年の従姉妹だった。
「今のは、海堂みどう様のお話ね」
 明らかに怒った口調で、少女は迎と目を合わそうともしなかった。
「止して頂戴。人殺しの口にしたお話を、妹達に吹き込むなんて」
 彼女は、純粋な正義の心を持っている娘だった。彼女は正義の心から、そんなことを言っていた。だが迎はそんな彼女に戸惑い、そしてムッとした。
「君こそ、その言い方を止めたらどうだい。海堂様は人なんて殺していない」
「ならば何故あの方は、警察になど捕まったの?」
「それはたまたま屋上にいたからさ」
「偶然だと仰るの? 海堂様は二度とも証言なさったじゃない。自殺の立ち会い人になったと。はっきりと、いつも祭壇で聖書を朗読なさるのと全く同じ、あの美しいお声でね!」
 少女が初めて迎の目を見詰めた。
 彼女の瞳は湖のように澄んでいて、穢れなく、真っ直ぐに、罪を憎んでいた。
 その瞳を見て、何故か迎は無性に苛立った。苛立ちを隠せずに、叫び返した。
「それは警察に捏造された証言だと言うじゃないか! 止せよ君こそ、海堂様のその証言を直接聞いたわけでもない癖に!!」
「言わされたと言う証拠もないじゃないの! 貴方こそ変よ、とっくに亡くなられた方のことを弁護するなんて、どうかしている」
 彼女の言葉に、迎は何も言い返せなくなった。
 胸の奥で、熱い塊が溶け出してきた。それは海堂の死後、会いに行った遺体の、とうに荼毘に伏されていたと知ったときの感じだった。突然、温かい骨を鼻先に突き付けられ、犬のように拾えと言われたときの、熱い感情だった。
 とうに失せたと思っていたそれが、再び沸き起こりそうになった。
「お客様、具合でも?」
 背の高いフライトアテンダントの女性が、身を屈めて、そう訊ねてきた。
 迎はハッとして、顔を挙げた。すかさず少女が微笑んだ。
「いいえ。何でもありませんわ」
「さようでございますか……。お食事は如何致しましょう?」
 フライトアテンダントが、そう言って迎達を見る。
 迎は顔を挙げ、「いらない」と答えようとした。
 しかしそのとき、機体が揺れた。体が席から飛び出そうになるほど、激しい揺れだった。
 前の座席の小さなふたりが、揃って悲鳴を挙げた。
「何事ですか!」
 思わず迎が怒鳴ると、フライトアテンダントも解からなかったようで、さっと顔色を変えた。迎と少女にシートベルトを着けるよう指示し、素早く立ち去る。
 その間にも、揺れが続いている。
 迎達は立ち上がって、前の座席のふたりに、落ち着いてシートベルトを着けるように言った。幼いふたりがシートベルトを装着したのを確認してから、迎達も座席に戻った。
 機内中が、騒音と悲鳴に満ちている。
「海堂様なら、こんな場合はどうされるだろう」
 思わず迎はそんな言葉を漏らす。少女は「止めて」と、泣きそうな声で言った。
 彼女は素早くシートベルトを着け終える。
 機長のアナウンスが流れ、右翼が、何かに接触したと告げた。最寄りの空港を捜し、緊急着陸をすると言う。
「接触!? こんな空の真ん中で、いったい何にぶつかると言うの?」
 少女が、いつもの冷静さを忘れたように、ややヒステリックに叫んだ。
 迎は俯きながら、冷静な分析を口にした。
「翼を壊すほどの生物が、こんな処を飛んでいると思うかい? きっと別の飛行機にぶつかったのさ。コントロールタワーの指令ミスだろう」
 迎の言葉に、彼を振り返った少女が、目を見張って短い悲鳴を挙げた。
「何しているの迎! 早くシートベルトを着けて!」
「着かないんだ。部品が歪んでいるのかな」
 迎は冷静だったが、幾らシートベルトを填めようとしても、部品に抵抗があるばかりで、カチリと言う装着の音が聞こえてこなかった。
 少女が手を貸してくれたが、やはりシートベルトは着かなかった。
「仕方がない。何かに掴まるさ」
 迎は立ち上がり、前の座席のふたりにも、席にしがみついているように言った。
「迎、体を何処かに結わえて」
 少女が言った。迎は首を横に振った。
「縄になるものがないよ」
 揺れが激しく、立っていられなくなった。迎が座ると、隣では少女が、着ていたセーラー服のリボンを外していた。座席に捕まる迎の手に、自らの手を重ね、その上から藍色のリボンをぐるぐると巻き付ける。
 何かをしないと気がすまないようだった。少女の目の端に、涙が滲んでいる。
「……ありがとう。心強いよ」
 皮肉ではなく、本心でそう言った。
 少女が何か言いたそうに口を開いた。
 そのとき、迎達の座席とは反対側、機体右手の窓のガラスが砕け散った。
「迎!」
 少女が迎を抱き締めた。
 迎の体を吹き飛ばそうとする強風。
 小さな窓が、回りの壁を壊して見る見る内に広がっていく。その付近の乗客はあっと言う間に窓に呑み込まれていった。
 窓は、迎を欲しがった。
「離せ、君まで引き摺られる!!」
 少女に向けて怒鳴った迎の声は、風の音に掻き消された。
 少女は決して迎を離そうとはしなかったが、しかし彼女の腕力のなさが、無情にも彼女に迎を手放させた。迎は窓に引き摺られる。
 風が起こす轟音に、迎の聴覚の限界が来て、キィンと言う耳鳴りの後、辺りが静かになった。
 何も聞こえない中で、記憶の中の、海堂の声だけが、高らかに聞こえた。



『一度行ってみたくはないか? その青の楽園とやらに』



 海堂少年、開校以来の記録的優等生、学校監督生に任命。
 海堂先輩。品行方正、信仰心も厚く、学校中の人間に敬愛され、崇拝されている。
 『優等生ノ起ス、前代未聞ノ不祥事』。
 帝国日報、一面記事。『精神異常ノ少年、級友ノ自殺ヲ見届ケル』。
 学校で立て続けに起きた、二件の投身自殺事件。海堂は、友人だった自殺者達に頼まれて自殺の立ち会い人となり、二度とも現場の屋上に立っていた。
 友の自殺を止めることなく、二度も見届けた海堂の精神を、誰もが異常だと糾弾した。
 やがて殺人嫌疑を掛けられ、彼が警察に逮捕され、学校を追放されたのが、二カ月前。
 そして彼が原因不明の死を遂げたのが、一カ月前だった。



 空を心地良さそうに泳いでいく、銀色の魚の群れ。
 海の底では、真珠貝から蝶々が生まれてくる。
 上も下もなく、空も海もなく、ひたすらに染み渡る、陽に透けた優しい青。
 立ち尽くした迎の足下を埋めている青は、海の始まりだろうか、空の終わりだろうか。
 青の楽園。
 上も下も、見れば何処までも透き通っていく青があるばかりだった。
 上にも下にも終わりはなく、青しかない。
 足下の底無しの青を眺めていると、自分が宙に浮いているような気持ちになる。
 ぞっとして上を見上げると、同じく限りない青に、気が遠のく。
 恐ろしかった。束縛された日常に慣れ切った罰なのか、迎には無縛な自分が頼りなく、無限の空間が恐ろしかった。
 一体自分は何処へ迷い込んだのか。
 辺りを見回す迎の耳に、美しい声が、何処からともなく届いた。
「まだそんなことに捕われているの。ここは折角、青の楽園なのに」
 声の主の姿は、見えなかった。
 遠くに白亜の城が見える。半分以上が青に染まっている白の城は、騙し絵のようだった。
 あちこちの壁が階段状になっており、その階段が捻じれて、螺旋階段になっている部分もある。その階段の上を青が流れていく。上から下に、青い水が流れているのかと思えば、いつのまにかその青は空と同化していて、空には魚が泳いでいる。
 魚が、咲き誇る花をついばんで回れば、花からは大粒の真珠がふたつみっつ零れ落ち、海へと落ちる。海にいた他の無数の真珠達に加わって、落ちた真珠はやがて珊瑚の卵のように、青の中を漂い始める。
 ふわふわと漂う真珠は、海の中で羽を繕っていた鳥の傍らへ落ち、羽根の上で発芽する。発芽した真珠からはか細い白銀の糸が伸びだし、他から伸びてきた糸と複雑に絡み合い、蜘蛛の巣を織り成した。すぐさま空から落ちてきた蜘蛛が、その巣の中央に落ち着く。
 貝から生まれたばかりの蝶々は、そんなことも知らずに羽を伸ばし、珊瑚や、その隣に生えた柳の木を避けながら、自由に海中を飛んでいた。
 蝶々が避けた赤い珊瑚の枝では、黒い蝙蝠が逆様に吊る下がり、顰めッ面をして静かに眠っている。その鼻先で揶揄ように舞ってみせた蝶々は、しかしまだ羽が弱く、不意に横から襲ってきた波に、僅かにふらついた。そして蜘蛛の巣を避け切れず、そこに捕えられる。
 もがく蝶々に、にじり寄る蜘蛛。
 蜘蛛の巣の上から、糸を切りながら近付いてきた蟹がいた。蟹は、蝶々を捕える寸前だった蜘蛛を鋏で素早く捕まえた。捕われた蜘蛛はもがき、しかし直ぐさま首を鋏でちょん切られた。海の底へ落ちていく蜘蛛の頭。
 青の中を落ちる途中、蜘蛛の八つの眼球が頭から離れていき、それらはバラバラになると、すぐに口を開いている真珠貝達に呑まれていった。
 残った蜘蛛の体は蟹に喰らい尽くされ、蟹が鋏でもう一度糸を切ると、蜘蛛の巣は崩壊して、蝶々も蟹も、ゆっくりと下へ落ちていった。
 また声がした。
「この世界に終わりはない。彼らはもう落ちていくだけだよ。見ていても仕方がない。おいで迎。忘却の階段を上がり、我が残夢の城へ」
 聞き覚えのある声だった。
「海堂様」
 思わず名を呼んだが、返事はなかった。
 上がってこいと言う意思表示だろうか。迎は足を進めた。
 迎は、なぜ自分がここにいるのかが、解からなかった。
 いつのまにこんな処に来たのだろう。
 どうやって、どうしてここに来たのだろう。
 ……それとも、初めからここにいたのだろうか。
 迎は青の中を漂うような、心許ない感触を味わいながら歩んで行き、白亜の城を登っていった。何故だか知っていた。その城の天辺に、城を支える神樹がある筈。
 そこには、美しい人間の実が成る筈だ。
 果たしてそこには年寄りのように古ぼけた、城の倍はありそうな太い幹をした大樹があった。木の回りに城を建てたのか、木から城が生まれたのか、判じかねる処だった。
 木のさらに天辺から声がした。
「おいで」
 木は見上げても、なお天辺は視界の果てにある。
 迎は辺りを見渡して、空を上ろうとしていたエイの背中に乗った。
 エイは迎に気付かず、そのまま上空へ飛び続ける。
「おいで……。ここだよ」
 風が鳴いた。
 エイが身を翻す。
 落下しそうだった迎の体は、しかし彼の予想に反してふわりと空に浮いた。
「ここでは空は海であり、海は空であり、そのどちらにもならない。泳いでここまで来ることも出来るし、落ちていくことも可能だ。望むがまま、青に身を委ねるといい」
 迎の体は、まるで水面に浮かんでいるようなものだった。ふわりふわりと、微かに動き続ける体は、バランスを取らねば、いつ沈んでいくか解からない。
 足と腕とを広げ、深呼吸をしながら何とか空中に留まった迎は、声の主の姿に、目を大きく見張った。
「海堂様……?」
 海堂は、いつも通りの笑顔を見せた。口の端を引き結ぶようにして、何処か気怠げで、少し皮肉げに見える笑みを浮かべる。
 その秀麗な笑みに見せられながら、迎は違和感を覚えていた。
 かつては迎と同じ制服に身を包んでいた、海堂が目の前にいる。彼はいま、裸体のまま木の実となり、枝先に生っている。
 その海堂の体は、美しい女の姿をしていた。
 生い茂った枝葉の天辺で、柔らかそうな若い葉と、有刺鉄線に似た有害な古い枝が、海堂の手首や白い体を縛り上げていた。
「ようこそ迎。きみを待っていた」
 声は学校にいた頃と変わらない、変声期の来ない、少年の声だった。
「海堂様……そのお姿は」
 何故、木に捕われているのか。
 そう訊ねようとしたが、迎はすぐにそれが間違った問い掛けだと言うことに気付く。
 木に捕われているのではなく、木に生っているのである。
 それはまるで果樹のように、神樹から海堂が実っていた。
 白く滑らかな海堂の手首を、枯れたような枝が苦しめているように見えて、その実は枝が海堂に養分を送っているのだった。体に纏わりつく枯れ木が、胸に刺さり、そこから海堂を若く美しく保たせている。
 さもなくば、海堂が木を枯らしている。
 古い大木の全ての力を吸い付くして、一人だけ美しく咲き誇るようだ。
 海堂はこの世界の果ての楽園にあっても、未だ一等に輝いていた。
 迎は少し涙を流した。
 やはり自分は何も間違っていなかったのだと感じた。誰もが糾弾した海堂は、間違ってなどいなかったのだ。迎は俯き、顔を両手で覆った。
 不図、自分の頬に当たる柔らかい布の感触に、ちり、と脳の奥が疼くような痛みを覚えた。
 迎の片手の掌に、藍色のリボンがぐるぐると巻き付いている。
 何処かで見覚えがあるリボンだった。思い出そうと、リボンを見詰めて目を眇めた。
「どうしたんだい迎。何か怪我でも?」
 だが海堂に声を掛けられて、迎は顔を挙げた。海堂は慈悲深く笑っていた。
「……いいえ、何にもないです」
 愛しさと懐かしさが込み上げてきて、胸が一杯になって、他のことが考えられなくなった。
「海堂様」
 迎は、海堂の前で、膝を付く動作をした。水中で座るような、ひどく不安定な心地がしたが、なんとか膝を折り、海堂の前で畏まった。
 海堂は両手を高く掲げた姿のまま、目の前の青の空気を漂っていた。迎は口を開いた。
「今までどちらにおいででしたか。皆、貴方を案じておりました」
「相変わらずのようだね、君たちは」
 海堂は微苦笑を浮かべた。彼は空を仰いだ。
「私は、天国を捨てたんだよ」
 青の楽園の支配者は、そう嘯いた。
「私を案じることはない。どうせ役に立たない頭脳なら、いっそ捨て置いて、盲目に我が軌跡を辿るがいい。天国を見失った羊どもに、この私が楽園を与えよう」
 風が鳴った。「迎、君が最初の迷いの羊だ」
 迎の周囲に、飛魚の群れが現れた。迎をグルリと取り囲んで、丸い銀縁の眼で迎を見詰める。逃れられないと、迎は感じた。
 海堂が縦に大きく口を開く。そこから、赤い金魚が這い出てきた。
 海堂の舌の上を這って、ぎょろりと目を剥いた出目金が、迎の方へ泳いでくる。
「それを口に。君もここの棲人となる」
 出目金が、口付けるように迎の口元を漂っていた。そのひらひらした尾鰭を見て、なんだかリボンに似ていると感じた。
 迎は、金魚を口にしなかった。
「海堂様……お戻り遊ばせ。皆が貴方の帰還をお待ちしております」
 海堂が、不快そうに柳眉を顰た。笑顔が、失せた。
 風が鳴り、枝葉が鳴った。神樹が、海堂に共鳴して、怒りを表わしているようだった。
「……あの世界に、戻る価値はない」
 先から、迎は違和感を覚えた。何故あの海堂が、これほどまでに侮蔑的な言葉を吐くのかが、解からなかった。海堂は信心深く、慈しみの心を持った人だった筈だ。
 天国を解さない人々に厳しい言葉をぶつけることはあったが、それも優しさからだった。
 それなのに何故、先程から、天国を否定するような物言いをするのだろう。
 そう、そもそも何故、自殺は神への冒涜であると言っていた彼が、友人の自殺に立ち会いなどしたのだろう。
「海堂様。僕には解かりません。なぜ貴方が、神を裏切る人々を、お救いにならなかったのですか」
 海堂は首を捻って、冷たい目をした。
「誰も神など裏切っていなかったよ」
 怒りのためだろうか、海堂の肌が、いっそう白さを増し、青を引き立たせた。
「誰も一度も、神を愛したことなどなかったんだから」
 深い深い青色は、哀しみを表わしているような、怒りを、憎しみを貯め込んでいるような。「神は素晴らしいと。神は全能であると。神は真であり、善であり、美であり、全てであると。教えられ続けてきた。だがそんなことを教わるよりもずっと昔から、私はそのことを知っていた。感じていたんだ。それがどれほど完璧なものか。どれほど深く、優しく、限りなく、麗しく、透き通り、自由なのかを、私はずっと知っていた。
 だのに、君たちは、一度も神を知らず、愛すこともなかった。
 君たちはいつだって、鏡の中の自分を愛した。そして憎んだ。そして裏切り続ける。
 振り返って考えてご覧。一度だって神を愛したことがあったかい。君たちが神と呼び続けたそれは、本当に神であったのか? それは、君に酷似していた筈だ。
 君がタブーと考えること、それは神がお与えになった十戒ではなく、君から派生した君自身の戒めだ。君らは、神のタブーを守ったことなど一度もない筈。
 私の神は、常に完璧だったよ。完全だった。アルパであり、オメガである。神は、君たちに嘘偽りのないものを、満ち足りたものを与えたもうた。
 けれど不完全な君たちは、一度だってそれを受け取らなかった。自分たちが矮小であることを棚に上げ、或いは全く気付かずに、神の食べ物を否定した。見えない目で『美しくない』と笑い、聞こえぬ耳で『何も聞こえない』と喚き、嗅がない鼻で『悪い臭いだ』と嘆いた。
 完全無欠の神を求める君たちが、完全であったことなど一度もなかった!
 神は何処へ行けばいい? 私は何処へ行けば良かったのだ。
 我々は、稚拙で不完全な君たちのための玩具ではないのだ。君たちの鏡に映った欺瞞だらけの醜い姿を美しく飾り立てるための、刈り取られて枯れ果てるだけの花ではないのだ。
 我々は不変である。成長も出来ず意味なく増殖を繰り返す君らの、自己満足に付き合わされては捨てられる、そんな存在ではなかった筈だ。けれど私は捨てられた。天国とともに、君たちから捨てられた。私が一度も愛されないまま、君たちから捨てられた。何よりも一等であることを望まれた私が、一等であるが故に、一等になれない君たちから捨てられた。
 君に教えてあげよう。最初の友が、私に向かって言った言葉を。彼は私とともに神を敬愛し信奉していた。だが彼はあの晩、私に言った『君は一等だ、僕は君になれない。僕はもう生きていかれない。君がいては、僕は神に愛されることもないだろう』。
 二人目の友はこうも言った『君の輝きが僕を殺す。もう降参だ。君の傍にはいられない』。
 ねぇ、輝かなければ、誰が私を祝福する?
 輝けるものに約束された筈の祝福が、いつのまにか呪いに変わった。私の居場所は、私に適わなかったと嘯いた二人が、あっという間に奪っていった。学校も、家も、社会も、私を糾弾し追い詰めた。私は私を宝だと誉めていた祖父の手で、殺された。
 私の居場所は、あの世界になかった。あの世界は、なんと無価値なことか。輝きが欲しくて、だけど輝きに耐えられなくて、暗黒で塗り潰す。私はあすこで暮らせる者ではなかった。
だから私はここに来た。青は赦しだ。青は救いだ。青は無だ。
 君たちが望み、永遠に手に入れることのない、この楽園の唯一にして最大の神になる。それがあるべき姿だったのだ。
 何故、初めに気付かなかったのだろう。神が完全であると気付いたときに、あんな世界は捨てるべきだったのだ。完全であれば、孤独すら恐くない。孤独を恐れるからこそ、人は不完全となり堕落していく。
 さぁ迎、それをお食べ。君にも完璧な孤独をあげる。本当の楽園においで」
 海堂が顎で示した先に、赤い金魚が泳いでいる。
 迎は思考が停止する寸前だった。
 海堂は誰からも愛されていた。
 その海堂が、愛されなかったと嘆いている。
 なにがいけなかったのだろう。なにが伝わらなかったのだろう。
 あの少女ですら、海堂に裏切られたと感じたからこそ、あんな風に海堂を責めたのに。
 しかし、あの少女とは誰のことだろう?
「迎。お食べ」
 海堂に囁かれるまま、迎は掌で金魚を捕えた。
 藍色のリボンの上で、わずかに身を捩っては抵抗する、赤い魚。
 名前が思い出せない。
 迎は歯車が止まりそうな脳を、必死に動かそうと試みる。
 魚の名前は解かる。これは金魚。これは出目金。キヤリは不恰好だと嫌ったが、コォリの方は興味津々で、祭りの夜に取ってくれと熱心にせがんだ。
「海堂様を、皆が愛しておりました」
 少女はキヤリの大袈裟な嫌がり方に笑い、妹の小さな頭を撫でながら、ではこの子には可愛いのを取ってあげてと迎に頼んだ。
「君もか、迎。誰もが、失ってからそんなことを言うものだね。失ってから愛していると気付くのは、生者の罪悪感を紛らわせるための旗弁だ」
 海堂がそう言う。祭りの夜は、キヤリのために、金魚の絵がついた水風船を取ってくれた人なのに、こんなに冷たい顔をする。
「失ってから気付くものなんて、所詮ほんとうに大事なものではなかったんだよ」
 なんて冷たい言葉を吐く。
 迎は金魚を解放した。何処へでも泳いでいくがいいと囁いた。
 海堂が目を見張った。
 迎は膝を伸ばして、立ち上がった。空から、真珠が無数に降ってきた。雪のようだ。
 それを一粒握り締めて、迎は微笑んだ。
「あの娘へおみやげに」
 海堂は顔を歪めた。
 迎は彼に頭を下げた。
「皆、貴方を失う前から、大切なことを知っていました。ただ、失うことなど考えてもみなかっただけなのです。それがそもそもの僕らの罪悪なのかも知れません。けれど覚えておいて下さい。皆、貴方に愛されようと必死だった。自殺など、本気じゃなかったのかも知れない。ただ貴方に止めて戴きたくて、そんなことを言ったのかも知れない」
 海堂が奇怪な悲鳴を上げた。鳥がくびり殺されたような声。
「皆、自分が貴方を追い詰めているなんて、思いもしなかった。貴方に遠く及ばない矮小な自分たちが、偉大なる貴方を苦しめる存在になるだなんて、夢にも」
「迎」
 息苦しそうに、海堂が言った。迎は答えた。
「もう行きます。貴方を苦しめたことだけ、忘れない」
 落ちようと、思った。
 途端に体は落下していった。空を落ちていく感じがする。
 背筋に冷たいものが走り、首筋が泡立つ。体だけが落ちて、魂が残されそうな感触だ。
 遠くで、海堂が名前を呼んでくれた気がする。
 迎は鮮やかな青の中へ、自分が溶け込むような気がした。




 顔を挙げると、水着を着た従妹が、そこにいた。
「迎。随分と長く潜っていたわ。潜水が得意なのね」
 迎と彼女は、腰まである海の中に立っていた。珊瑚礁が美しい海だった。
「ああ。そうか、ヴァカンスに来ていたんだね」
 呟くと、少女は何を言っているのと言って笑った。
「暑くて惚けてしまったんじゃない。海から出て、木陰で休みましょう」
「そうだね。キヤリとコォリに冷たいものでも呑ませてあげよう」
 小さな二人が何処にいるかと訊ねたら、砂浜で砂遊びをしていると言う。
 ふたりで砂浜を目指して歩きながら、迎は思い出して、少女に手を差し伸べた。
「ね、おみやげ」
 少女が目を瞬いた。迎の掌には、青色の真珠がある。
「どうしてこんな浅瀬に真珠があるの? それに不思議な色」
 不思議がる彼女の掌に真珠を落として、迎は微笑んだ。
「空と海の青と、藍色のリボンの色を足すとこうなるんだよ。君の色だ」
「なあに? 変よ、迎」
「いいからおいで、真珠まみ
 彼女の名前を呼んで、迎は従妹の手を引いた。
「いまある時間を大切にしないとね」
 ふたりで砂浜へたどり着いたとき、背後の海で、何かが海面に飛び込む音がした。



 小さな二人の兄妹は、迎達が来るのを待っていた。
「やだコォリ、何を拾ったの?」
「不思議な木ノ実だよ。見て」
 それはしわがれた、胎児のような形の木ノ実。
「後で海の見える場所に、植えてあげようね」





〔  残夢の城  〕終


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