迦睡の夏

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 僕と迦睡かずいとの出会いは、無意味だった。
 何も産まず、何も創らなかった。
 この、何もかもが大量生産の資本主義社会に於て、僕と迦睡はただ出会っただけだった。
 有意を以て正道とするこの厳格な世界の中で、僕にとって、迦睡だけが無意味だった。
 世界の汚辱に曝され無様に死んでいった少年。彼は真実無意味だった。
 その無意味さこそが真実だった。
 迦睡。
 彼が亡くなったのは空清んだ、夏。





 〔雨〕


 夕立だった。客は来ない。
 雨宿りのため、僕は神社の境内に這入って神殿の縁側に上がった。
 そこには先客がいた。
 安い薄っぺらな着物を纏った子供だった。僕と歳は変わらなさそうに見える。
 同類だ、と僕は思った。その子がだらしなく着込んだ物は、一目で私娼と解かる着物だった。誰もが慎ましい暮しを強いられるこの戦火を前にして、敢えて派手な着物を纏い、敢えて真赤な口紅を引く。それは娼妓の証である。だが公娼の着物はもう少し増しだ。
 彼と、やっと膨らみ出したばかりの胸を、痛みを堪えて偽軍服で包む僕とは、明らかに同類だった。
 縁側に座った彼は大股に足を開き、膝の上に肘を乗せてぼんやりと雨を眺めていた。
彼は僕が隣に座っても無反応だった。彼の目は硝子のようで、感情もなく全てを傍観している。きっと僕が見えていないのだろう。
 帽子を脱いで、僕は疲れていたから、無言で彼と同じように雨模様を眺めていた。
 雨はすぐに止みそうだった。
 小雨になっても正直、神社から出たくなかった。進んで働きたい訳じゃない。
 僕が微かに嘆息すると、それを聞き付けたのか、突如として彼が口を開いた。
「…行くのか」
 僕のことなんか見えていないと思っていたから、正直とても驚いた。僕は彼の無表情な横顔を見詰めた。作り物の人形のように、やけに美しい横顔だった。
「いいや」
 まだ、と小さく付け足すと、彼は雨を眺めたまま頷いた。相槌の代わりだろう。それから彼はこちらを向いた。無表情な瞳が、僕を捕えた。
「幾つ」
 訊ねてきたのは、声変わりさえ未だの、澄んだ少年の声だった。
 僕も同じくらい幼い声で答えた。
「十」
「俺と同じだ」
 彼は僕をまじまじと見詰めた。
「その服、いいな」
 彼は言った。「俺もそっちがいい」
 僕は自分の、安い木綿の軍服を撫でた。
「僕はどっちを着ても同じだ」
 雨は殆ど止んでいた。
 僕と彼は沈黙して、雨を見詰めていた。やがて完全に止み、美しい夕映えが僕らの傷だらけの肌を燃やし出すと、流石にここに留まることが出来なくなった。
 彼が着物の裾を纏めて掴み、僕は帽子を被り直した。どちらからともなく立ち上がる。
 鳥居に向かって歩きながら、お互いに愚痴も慰めもなかった。愚痴を聞いてやる程の義理も、慰めてやる程の余裕もなかった。
 ただ鳥居の一寸前で、示し合わせたかのようにふたりして足を止めた。
 鳥居と言う名の枠を通して、彼は相変わらず無表情に、馴染みの卑俗な世界を眺めた。
「名前は」
 問われたとき、僕は目を伏せていた。答える前に視線を神域に向けた。
「そら」
 彼は無反応だった。交代に僕が名を訊ねると、彼は無感動な声で答えた。
「かずい」
 僕らは互いに何も言うことがなかった。
 それでもまるで影絵のように、彼が足を踏み出すと同時に、僕も娑婆へと踏み出した。






 〔朝〕

 「そら、休んでく?」
 常客の太った女がそう言ってきたが、僕はやんわりと断った。夜が明けるまで働かされてくたくただっただけに、こんな女とは、あと一秒だって一緒にいたくなかった。
 彼女の薄汚い部屋から出た後、僕は小さく「豚」と呟く。それから、仲間と暮す下水臭い犬小屋にも帰らず、ふらりと神社を目指した。
 数日振りに境内を覗くと、迦睡がいた。例の着物姿で、精魂尽き果てたようにぐったりと縁側で横たわっていた。
 僕はそっと近付いた。静かに静かに、彼から僅かに離れた処に腰を下ろす。
 迦睡は死んだように眠っていた。横顔を上から覗き込んでも、起きる気配はない。彼も働き詰めで、疲れているのだろう。
 僕も酷く眠かった。帽子を外して、迦睡と頭を付き合わせるような形で寝た。彼の寝息を子守歌に、僕は久し振りの安眠を貪った。
 彼は寝ている僕に危害を加えないし、無理に慰めようともしない。ただ僕と同じ姿で、同じように横たわっているだけだ。
 僕らは一対の何かのようになって寝た。
 朝日が眩しく照り付けて、縁側に僕らの影を濃く落とす。
 僕の影は迦睡で、迦睡の影は僕だった。





 〔痣〕


 或る日、客だった男が帰り際に、僕の掌に飴玉を落としていった。赤と橙と白。
「またな」
 男は気取った風に僕に軽く口付けをして、無様な音だけ残して路地から立ち去る。
 僕は洋袴を履き、路上に唾を吐いて、飴玉を握った拳を隠しに突っ込んだ。


 神社に戻ると、迦睡はまた死んだように眠っていた。
 彼は寝顔すら無表情だった。まるで本当に人形でも眺めているような気分になる。
 暫くそれを見詰めた後、当たり前かと自嘲した。所詮僕らは傀儡かいらいだった。
 僕は傀儡が笑う様を見てみたくて、迦睡の半開きの唇に飴玉をひとつ押し込んだ。迦睡は唇を閉じると同時に目を開けた。飴玉のように丸い瞳だった。彼より先に僕が笑った。迦睡が身を起こす横に腰を下ろし、僕も飴玉をひとつ舐めた。
 迦睡は驚いた様子で、目玉をくるくる動かしながら、僕に向き直った。だが、僕も迦睡も、口の中の一時の至福を味わい切るまでは、無言だった。
「どうしたんだ」
 ようやく迦睡が訊ねてくる。僕は縁側から下りて、荒れた境内から手頃な石を拾ってきた。掌に残っていた赤い飴玉を、石で叩き割る。
「客がくれた」
 飴玉は奇麗に半分に割れた。僕は片方を迦睡に差し出す。
 迦睡は僕の掌に載ったそれを見詰めて、少し困ったように眉根を寄せた。
 何だろうと思っていると、彼はやがて両手を縁側について、前屈みになった。目を伏せて、犬のように、僕の掌の上で飴玉を舐め始める。僕は黙って見ていた。
 迦睡の真赤な唇の間から、赤い舌がチラリチラリと覗いては、赤い飴を転がして舐める。前屈みの迦睡の胸元が開けて、中が覗けた。彼の白い項から背中に掛けても見ることが出来た。そこかしこに、真赤な痣が見て取れた。
 僕も項垂れるようにして、彼の柔らかい髪の中に顔を埋めた。
 迦睡が顔を挙げて、僕も彼の瞳を覗き込んだ。人形の目に、無力感が広がっていた。
 人形は静かに僕に口付けた。僕も黙って受けた。
 そう言えば、お礼の仕方もされ方も、僕らは知らないのだと不図気付いた。
 迦睡と僕には、コレしかなった。





 〔飴〕


 神社の宮司は、盲だ老人だった。
 彼は僕らをただの孤児と思ったのか、よく世話をしてくれた。きっと彼には、僕らの男装も女装も見えていないのだろう。見えていたら、こんな穢れた子猿どもを、神域に置く筈もない。
 宮司は会う度ニコニコと笑って、僕らに何かしら与えてくれた。きっと彼が食べる為にあったのだろう一人分の水団や芋を、僕らふたりにくれることもあった。
 或るとき、僕らが縁側に寝そべっている処へ彼が現れた。彼はニコニコ笑って、迦睡の掌に蜜柑を握らせてくれた。
「爺は目が見えぬでの。ふたりで仲良く分けなさい」
 迦睡が蜜柑の実も皮も、きっちり二等分して片方を僕にくれる。僕らが大事に実を食べている横で、宮司はニコニコしていた。
「ふたりとも、仕事は大変かい」
 唐突に、天気を訊ねるように、宮司がそう言った。僕らは酷く驚いた。そして焦った。
 ついに僕らの仕事がばれたのだろうか。僕らは神域から追い出されるだろうか。
 蜜柑を食べる手が止まり、震え出すのが止まらない。
 けれど宮司は見えない目で、僕らを覗き込むように顔を動かした。
「この辺りではどんな仕事があるかねぇ。疎開先のように、耕す畑がある訳でもなし」
 僕と迦睡は顔を見合わせて、同時に胸を撫で下ろした。
 迦睡が先に嘘を言った。
「町外れまで行って、食堂で皿洗いなんかをしてるんだ」
「給仕もする」
 僕も一緒に嘘をついた。そんなこと、この格好を見ればすぐに嘘だと解かるのに。
 けれど宮司は見えない目を細めて、そうかそうかと笑っていた。
 一先ず安堵した僕と迦睡は、宮司が僕らの「仕事」についてこれ以上詮索してこない内に、蜜柑の実を食べ終えた。皮を大事に隠しに仕舞って、僕らは宮司に別れを告げた。
「もう、食堂に働きに行かなくちゃいけないから」
 そそくさと立ち去ろうとした僕らだが、しかし宮司に呼び止められた。
「まぁ待ちなさい」
 早く逃げたい僕らは、立ち止まってそわそわとしていた。宮司は懐に手を入れて、何かを探る動作をしていた。「爺は目が見えぬでの」と呟いて、彼は懐から何かを握った手を出した。そして、今度は僕の掌に、その何かを握らせた。
「爺は目が見えぬでの」
 彼は繰り返し言った。
「飴玉じゃ」
 彼はニコニコと笑っていた。「またおいで」
 僕と迦睡は頷いて、同時に縁側から飛び降りて、走って逃げた。
 迦睡は長ったらしい真赤な襦袢が邪魔で、走りにくそうだった。僕は片手で飴玉を強く握り締めていて、もう一方の手では帽子が飛ばないよう押さえて走るので、大変だった。
 ふたりで、見慣れた汚い路地裏まで逃げ込んだ。
「爺の目が見えなくて良かった」
 迦睡が荒い呼吸の合間にそう言い、僕も頷いた。僕は必死に力を込めすぎて痛くなっていた拳を開いた。迦睡と一緒に覗き込む。
 だが僕の掌には飴玉などなかった。
 僕は黙って迦睡の胸元の痣を見詰め、迦睡は僕の口元の、昨夜客に殴られて出来た痣を見詰めた。僕らの仕事には付き物の痣だった。
 僕らは再び僕の掌に目を落とす。
 そこにあったのは、鉄葉ブリキの缶に入った傷薬だった。






 迦睡が死んだのは、空清んだ、夏だった。
 突然の空襲に、命を落とした。
 僕は今日も神殿の縁側に腰掛けているけれど、隣に僕の影はいなかった。
 彼の死は無意味だった。
 彼の人生も。彼は齢十にして、得るものもなく男達に体を売って、誰に埋葬される訳でもないのに突然死んだ。彼はこの世に何も残さず死んだ。何て無意味だろうと思う。
 僕の腹には赤ん坊がいる。
 店の姉御に告げたら、姉御はニヤリと嘲笑った。堕ろせと言った。まだ早いと。
 大人になったら産んでもいいらしい。女は兵隊を産む為に生きているのだから、と姉御は言った。
 じゃあ男は何の為にいるのだと訊いたら、敵兵を殺す為に生きているのだと言う。
 ではやはり迦睡は無意味なのだと、改めて思った。
 子を産めず、敵も殺せないまま死んだ彼。このクニで、余りにも無意味だった存在。
 僕は笑った。
 ああだから彼はあんなにも綺麗だったのかと、気が付いた。
 有意であれと人々に強制するこの醜い娑婆で、無意味だからこそ美しかった彼。
 人は無意味なものだと誰もが知っていて、それを誤魔化して生きようとする醜い世界。
 誤魔化さなかった彼の美しい姿を思い浮かべながら、僕は縁側で独り、蜜柑の皮を噛っていた。
 夏の空は高く、清んで、美しく。
 そして今日も無意味だった。







〔迦睡の夏〕終

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