親愛なる

書架




 冬の星月夜、空は高くて美しい。澄んだ空気によって、空は黒い宝石を敷き詰められた天国の蓋いのようで、それはそれは美しい。そこにちりばめられ瞬きを繰り返す星々は遠く、氷のように冷たく煌めいて、決して人の手が届くものではない。冬の空は、見上げていて、自然と心細くなるものだった。
 だけど何故だろう。夏の空は、見上げていると、自然に泣きたくなるものだった。
 あの頃、夏の終わりの空は、世界に溶け込む美しさだった。
 闇空の色も、星の色も、冬のものとは似ていても到底その質が異なっていた。
 夏の空も、星も、まるで滲むような優しさで、見上げるちっぽけな生命をふわりと包み込んでくれる気がした。それなのにこちらから手を伸ばしても、そこに掻き抱くべき形はない。空っぽの腕の中に絶望する人間の耳には、虫の声。
 必死に生命の証を鳴き喚いて知らせる虫の音は、まるで人間には無関係にそれぞれの大地の上で充実した生を完うする。生を謳歌し鳴き散らす虫の音は、賑やかどころか人々の虚しさを浮き彫りにし、孤独を深めた。
 もう今は夏すら遠い。

 バツ

 切ない夏空を思い出しながら、同時に、戦地へ赴いた友人の名を心に浮かべた。
 今、手の中には彼からの唯一で最期の手紙が収まっている。
 彼が出掛けに僕の胸へ押し付けていったので、くしゃくしゃになってしまった手紙。僕はそれを何度か熨して、一字一句目に焼き付けながら読んだ。最後には燃やしてしまおうと思っていたからだ。
 読み終えた僕は初めの意志と変わらずに、それに火を点けて、暮れかけた空へ放った。灰と化した罰からの手紙は、呆気なく風に舞って散っていった。
 丁度、彼の命と同じ位に果敢無く。
 僕は柘榴の木の下で空を見上げて、何もない空を見上げて、口を開いた。
 一言だけ、罰に教えてあげたかった。


 罰。


 今日も空は美しいよ。







「親愛なる赤鐘あかね
 今日、君に生まれて初めての手紙を書く。
 私は戦地へ赴くことが決まりました。希望通り、飛行機乗りに成りました。
 だからもう帰ってくることはありません。とても誇らしい。
 こうして君に手紙だなんて、七面倒臭いものをしたためている私は、多分夏が終わる頃にはこの世にいないんだろうね。何だか実感が沸きません。
 今、この手紙を書いている処は我が家の屋根裏部屋の、古ぼけた小さな机です。右隣に小さな窓があります。そこから夜空が見えています。残念ながら月は出ていないが、星が空から零れ落ちそうなくらい沢山あって、輝いて、是非君にも見せてやりたい。
 君とは、いつも家の外でしか逢わなかったことを思い出します。
 私と君は、この戦禍の中で、唄が好きだなんて言う非国民同士だったから、人が絶対に来ないような場所まで逃げて、好きなだけ唄を歌っていた。
 だけど今は、私の唇から唄は出ない。
 私の唄を聴くものは、空と風だけだと言うのにね。惜しいことです。
 出来たら飛行機に乗る前に、赤鐘の唄を聴きたかったけれど、まず時間が無くて無理でしょう。それもとても残念です。
 最期は、余裕があれば、空に唄って死にたいと思う。
 この世界で、奇麗なものはただ空と、赤鐘の声だけだね。
 でも私が好きな空は、この夏空ではなく秋の空だけれどね。もう見ることはないでしょう。
 昨年の秋の空はとても美しかったね。確か隣に君もいた筈。
 見上げた空の色はあまりに深くて、声も出なかったのを覚えている。
 あの空を見て、何だか私は逃げ出したくなった。青いなんてものじゃなかったんだね、あの日の空の色は。
 青過ぎるくらいだ。ちっとも優しくなかった。
 あれは空の色じゃないと思った。澄んでいて、濃くて、懐かしい深海の色に似ていた。
 あの空の向こうには光がないんじゃないかとも思った。色が深過ぎたんだ。
 逃げることが叶わなければ、終には頭を垂れて額付いてしまいたくなる空だった。
 白い雲も、黄みがかった紅葉前の木々の緑も、赤煉瓦の建物も、全ては空の青さを引き立てる為にあった。あんなに心を責め立てる様な息苦しい空の青、初めて見た。
 隣には赤鐘がいて、私たちの後ろには柘榴の木があった。熟れた柘榴が、容赦無い空へ向けて、その真赤な内臓を開いていた。空に弾けた実が、赤い宝石みたいに奇麗だった。そう、世界は宝石みたいなものです。
 この世界は美しいと思います。
 すばらしいと思います。
 だけど、私の知る、そして生きるこの世界は、美しくありません。
 同じ世界なのに、違うのです。
 何故だろう。
 同じなのにね。
 世界を構成する物質が違うのだろうか。
 異なる素材で同じ世界を目指して造ったから、こうも歪んでしまったのか。所詮私たちが生きるこの世界は、美しい世界の模造品で、人工のものは醜いだけなのだろうか。
 その可能性はない訳ではないのだろうけれど、私にはそうは思えないよ。
 世界と世界は、同じものから出来ているんだと思う。
 だけれども、私たちが生きる世界には、何か蟠りがあるんだ。浄化の出来ない凝りのようなものが、私たちの中にある。
 きっとそれは些細なことで、だけど決定的に世界を違えてしまうことだった。
 だから世界は血塗られていて、私の妹も死んだんだと思う。
 彼女は五歳の時に亡くなりました。世界の例に漏れず病気の子供で、例に漏れず戦禍で命を落としました。敵の飛行機が爆弾なんか落とさなくても、時間が止めを刺したのだろうにね、勿体無いことです。
 妹は私に似て、と言うか私の所為でと言うのが正しいのだろう、少々敵国の文化にかぶれていました。幼くて、我がクニの現人神のことはあまり信じていない代りに、万物を創造した万能の神の存在を信じていました。
 万能の神だから、自分も、私も、世界も救ってくれると信じていたようです。
 私は彼女に教えてやりました。その神と言うのは、人が死後に逝く、天国と言う場所を棲み処にしていること。天国は空にあるということを。
 彼女は天国のことも信じました。青い空、高い空、美しい空を、妹は毎日のように見上げました。彼女は空に、天国に祈りました。
 やがて天国からは爆弾が降ってきて、妹はそこへ逝きました。

 赤鐘、私は最期に空に唄って死にたいと思います。

 私は天国なんて信じていませんし、まさか空から爆弾が降ったって、それが天国が妹を殺したことにはならないと解かっています。
 だから私は平気な顔で飛行機乗りに志願できました。
 皆さん、私を喜んで送り出して下さいます。
 万歳と叫んで、送って下さいます。
 とても有り難いことですね。
 私が出征する日は青空だといい。
 赤鐘、君も喜んで私を送って下さい。
 君と離れるのだけが心残りだれど、私は中々気楽に逝きます。
 道中、余裕があったら唄なぞ歌って、気を紛らわせて行ってきます。
 空が青かったら、私が世界の一部になって、何処かで唄っているのだと思って下さい。
 最後に、大好きな君の唄声を想いながら、お別れを言いましょう。
 今迄本当にありがとう。
 大好きな赤鐘、お元気で。
 君は絶対に兵隊になんかならないで。


 さようなら。


                                 罰」

書架


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