墨と蜜

後編 書架


前編





 蜜は一人っ子だ。
 蜜は、海の見える小高い丘の上に建った家で、両親と三人で暮らしている。
 蜜の家は、町からも学校からも離れた処にぽつんと一軒だけ建っていて、近所には誰も住んでいなかった。だから春休みの間中、蜜には遊び相手がいなかった。
 蜜は自分に、年の近い姉妹がいたらいいのにと思う。そうしたら学校の友達のように仲良く遊ぶのに。 でもその願いは今更叶う筈もなく、蜜は今日も独りぼっちで、部屋の窓から海を眺めていた。
「せめてペットがいればいいのに」
 蜜は呟く。でもその願いも叶わない。蜜の両親は、動物を極端に嫌っていた。すぐに死んでしまう者を嫌っていた。
 蜜は今日も独りぼっちで、部屋の窓辺に腰掛けて、空想の姉妹とペットと、戯れる妄想に耽る。
 姉妹がいたら、どんな子だろう。蜜にそっくりだろうか。蜜と同じ、柔らかい亜麻色の髪をしているだろうか。蜜のように細い体だろうか。
 彼女の髪が蜜と同じで長いなら、蜜の髪留めを貸してあげよう。体のサイズが同じなら、蜜のお気に入りの白い服を貸してあげよう。
 蜜は架空の姉妹の髪を結い、服を着せ、彼女と、ペットについて語り出す。
「ねえ、ペット飼うなら何がいい? 犬? それとも猫?」
 姉妹が答える。
 犬は散歩に行かないといけないし、猫は爪で引っ掻かれたら大変だよ。
「じゃあ鳥はどう?」
 鳥籠から逃げられちゃったら? 悲しいよ。
「うーん。何がいいかなあ」
 ふわふわした、小さくて可愛い動物がいいよ。鼠なんかは?
「鼠なんてあんまりだわ。それなら栗鼠リスがいい。でも栗鼠は棚に登って下りてこなさそうね。もっと、いつでも抱っこしてられるものがいいわ」
 そうだねたとえば。
 兎。
 蛆虫うじむし
 兎が現れて、姉妹の姿は消えた。白い兎だった。膨張していた。
 白い蛆虫が、兎の体中を覆っていた。
 窓から強い海風が吹き込んできて、カーテンが蜜の視界を覆った。
 白いカーテンだった。風を巻き込んで膨張していた。
 蛆虫が体を覆っていた。膨張していた。
 蜜は悲鳴を挙げて窓辺から逃げ出そうとした。カーテンが蜜を絡めとって、体中に蛆虫を植え付けようとしていた。蜜は目茶苦茶に手を振り回してカーテンから逃れると、廊下へ出るドアを開けた。
 だがドアの外は、教会だった。







 ゴシック教会の中で、臙脂色で統一された同じ制服を着た沢山の少女達が、蜜を見ていた。皆、蜜と同じ位の年に見えた。彼女達は蜜を眺めて、ひそひそと何か囁き合っていた。
 蜜は辺りを見回した。見知らぬ場所だった。蜜は自分の家の自分の部屋から外へ出た筈なのに、ここは教会の中だった。蜜が開けたドアは、礼拝堂の入り口の扉だったらしい。蜜の目の前に、一直線に続く道があり、その正面には十字架に掛けられた神がいた。その神像の前に、一人の少女が跪いて祈りを捧げている。蜜は、神像が変だと思った。
 イエス・キリストの象ではなかった。十字架に張り付けにされているのは、人間の男の体をした、キリストの姿に似せた兎だった。白い兎は瞳を閉じて、耳を伏せて僅かに伸びた前歯を覗かせていた。頭以外は、キリストそっくりの象だった。頭上には棘の冠もある。
 蜜が兎の神像に見入っている間に、制服の少女達は蜜に見入っていて、彼女達の囁き合いはやがて耳障りな騒めきに変わっていった。
礼拝堂の天井に響くほど騒めきが大きくなった時、兎に祈りを捧げていた少女がようやく立ち上がって、蜜を振り返った。凛々しい面立ちの少女だった。少年めいた、涼しげで透明な目付きをしていた。髪型も他の少女達とは違って少年のようで、黒い髪を耳が隠れる程度に短めに切っていた。彼女はよく響く奇麗な声で、蜜に言った。
「君、転校生かい」
 彼女の声が響いた途端、礼拝堂が静まり返った。先まで蜜を見ていた少女達が、全員黒髪の少女に注目していた。彼女の存在は特別なようだった。
 彼女は沈かな靴音をたてて、蜜の方へやってきた。彼女は蜜の目の前に立って、別の問いをした。
「寮母へのご挨拶は済ませた?」
 蜜は状況がさっぱり解からなくて、質問には答えずに、おろおろと彼女に問いを返した。
「ここは一体何処なの?」
 蜜が初めて言葉を発すると、少女達がまた騒めきを取り戻した。蜜は自分の何処かがおかしいのかと思って不安になったが、黒髪の少女はごく自然に答えを返してきた。
「ここは礼拝堂だよ。今はお祈りの時間だ。君、まだ学校の説明を受けていないのか」
 彼女は自分の胸に手を当てた。
「私はスミと言う。寮長をしている。君の名前を教えてくれ」
 軍人か、舞台女優のような明瞭な発音で名乗られ、蜜はつい背筋を伸ばして、彼女に対して同じようにはっきり口を動かして答えた。
「わたし、蜜です」
「よろしく」
 墨に深く丁寧なお辞儀をされて、蜜も吊られて深々と礼をする。顔を挙げると、墨は蜜の腕を取って、礼拝堂の少女達を見回した。
 「私は転校生を寮母の処へ連れていく。皆はそのままいつも通りお祈りを続けなさい」
 騒めくのを止めた少女達から、声を揃えて返事が来る。しかし少女達は、墨が背を向けた途端に、すぐにまた騒めきを取り戻した。
 蜜は少女達の内緒話の内容が、自分に関係しているのだろうから気になったが、墨は蜜の腕を掴んで、礼拝堂から出てしまった。開けた扉を閉じると、少女達の声は、重い扉に阻まれて止んだ。
「寮はこっちだ。来なさい」
 墨に言われて、蜜は仕方なく後に従った。礼拝堂の扉が開いたら、また自分の部屋に繋がってくれないかと思ったのだが、しかし礼拝堂の外は広大で奇麗な庭園だった。
 早く家に帰りたいと蜜は思った。何故自分はこんな見知らぬ場所で見知らぬ少女と歩いているのか。
 墨は歩くのが早かった。急いでいるようには見えないが、コンパスが違うのか、同じ歩数でも蜜よりずっと先まで行ってしまう。この広い庭で置いていかれては迷いかねない。蜜は小走りで墨の背中を追った。蜜は墨の腕を掴んだ。
「待って。もっとゆっくり歩いて……」
 ふと蜜は、墨の腕に、他の少女達にはなかった腕章が付いているのに気が付いた。肩から細い帯革を使って、右腕に黒い腕章を吊るしていた。本当に軍人のようだと思い、蜜は訊ねた。
「その腕章は寮長の印なの?」
「ああ……。そうだよ」
 墨は一度立ち止まって、腕章をちらりと見て頷くと、それからゆっくりと歩き出した。蜜は漸く普通に歩けるようになり、ほっと一息ついた。
「軍人さんみたいね。バッチとかにしたらいいのに」
「先代寮長が無くしちゃったんだよ。そそっかしい先輩だった」
 墨は不意に蜜を振り返って、蜜を見た。
「そう言えば、君はまだ制服を支給されていないんだね」
 蜜は自分の姿を見下ろした。蜜はドレスみたいに裾が広がった白いワンピースを着ていた。お気に入りの服だった。墨が言った。
「先、礼拝堂で皆が君を見ていたろう。君の服が可愛いって騒いでたんだよ」
墨はそう言って僅かに笑みを見せた。笑うと、軍人のような厳格な印象は無くなった。それこそ、少年そのままのようで親しみ易い感じがした。
 蜜はくだけた印象になった墨の隣に並んで、言った。
「ね、待って。わたし転校生じゃないの。迷ってただけなのよ。ここは何て処なの? わたし、自分の家に帰りたいんだけど……」
「もうホームシックか? 君の家は今日からここだよ」
 墨は白い建物の前で立ち止まった。教会と同じで、ゴシック様式の建物だった。墨はドアを開けると、自分はドアを押さえたままポーチに立って、蜜に先に中に入るように片手で示した。
「どうぞ」
 断るのも悪い気がして、蜜は玄関に入った。入ってすぐに、修道女の格好の老婦人がいた。婦人は蜜に微笑んだ。
「ようこそ、蜜さん。お待ちしていました」
 初対面の婦人に名前を呼ばれて、蜜は驚いて言葉を失った。蜜が何も言えないでいると、その間に墨がドアを閉めて蜜の隣に立った。
「蜜。こちらが寮母先生ハウスマザーだよ。皆の親代わりだから、何かあったら寮母先生に相談を」
 寮母が、呆然としている蜜の手の中に、鍵をひとつ落とした。鈍い銀色の、装飾過多の古風な鍵だった。
 寮母は穏やかに微笑みながら告げた。
「蜜さん、貴女のお部屋はそちらの墨寮長との二人部屋よ。鍵はこちら」
「あれ。何時の間にそうなったんですか」
 墨が寮母に首を傾げてみせる。蜜は初対面の寮母に名前を言い当てられたり、頼んでもいない寮部屋を用意されていたりで、さっぱり訳が解からなくて、鍵を眺めて困っていた。墨と寮母は、そんな蜜を挟んで会話を続ける。
「墨寮長のお部屋しか空いていなかったのよ。ご不満?」
「いいえ寮母先生。でも部屋をちっとも片してないから、すぐ片付けないと」
「蜜さんに、寮のことをちゃんと教えて差し上げてね」
「はい寮母先生。部屋に戻ります。蜜、こっちだ」
 墨は蜜を手招きして、寮母に一礼してから彼女の脇を擦り抜けた。蜜は呆っとして、呼ばれるままに付いていく。墨が蜜を連れて玄関の傍らに設置された階段を上り出すと、寮母は優しい声で忠告した。
「夕食は六時からですよ」
「はい、寮母先生」
 墨は階段の手摺から顔を覗かせてきちんと答えた。
 部屋は二階に上がって左の、突き当たりにあった。
「他の部屋より窓が多いんだよ」と嬉しそうに言って、墨は胸ポケットから蜜と同じ銀の鍵を出してドアを開けた。また蜜を先に部屋に入れてから、墨も部屋に入る。墨はドアを閉めて、部屋の正面のベッドに歩いていった。
「散らかってて済まない。君が来るって聞いてたら、もっと奇麗にしておいたんだけど」
 ドアが閉じる音に、蜜はドアを振り返った。ドアの内側には丁寧な彫刻が施されいて、中央に、十字架に吊るされた兎の象が浮き彫りにされていた。
 部屋の中を見ると、墨はベッドの上に散らかった冊子や服を集めていた。蜜の為に掃除をしているのだろう。蜜は慌てて言った。
「あ……の。わたし、もう帰るね……」
 墨が何か言い出す前に、蜜はドアノブを掴んで、浮き上がった十字架を押した。十字架が熱かった。手を慌てて離した。
「蜜」
 墨が背後に立った。蜜は戸惑いの色を浮かべた眼で墨を見た。墨は囁いた。
「帰るって、一体何処へ?」
 蜜は答えようとして、答えが自分で解からなくなっていることに気が付いた。
「何処へ?」
 墨が再び囁いた。蜜にはやっぱり答えが解からなかった。
 蜜の肩を二度叩いて、墨はまた部屋の中央へ戻った。
「帰るなんて言って怒らないで、待っていてくれ。すぐに片付け終わる」
 蜜はドアの前で額を押さえて、立ち尽くした。自分が何処に帰りたかったか、考えても思い出せなかった。蜜はドアの十字架を見た。前歯を僅かに覗かせた兎に、笑われたような気がした。









 私服に着替えた墨に連れられて、蜜は食堂へ向かった。階段を降りながら、墨は蜜に言う。
「夕食のときだけは、何時も私服で構わないんだ。それと休日は。普段の朝食と昼食の席には、制服着用が絶対だ」
 蜜は自分の白い洋服を見下ろした。
「じゃあ明日どうしよう。わたし、まだ制服がないわ」
「きっと今夜のうちに届くよ」
 墨は、一階に居残っている少女がないか確認をしてから、外へ出て玄関に鍵を掛けた。鍵は金色の鍵だった。
「寮長は大変ね」
 墨と並んで庭を歩きながら蜜がそう言うと、墨は肩を竦めて、私服になっても着けっぱなしの黒い腕章をぴたぴたと叩いた。
 食堂では全員が食卓に並んで座っていた。蜜は墨の隣に席を用意された。墨は蜜の椅子を引いて蜜を座らせて、蜜に訊ねる。
「好き嫌いは何かある?」
「人参は嫌いなの」
 ナプキンを膝に載せて蜜は答える。墨は隣に腰を下ろして、ナプキンを広げて微笑を浮かべた。墨の傍らに眼鏡を掛けた少女が立って、墨の前にスープを置いた。彼女も微笑みながら、蜜に言った。
「そんなこと仰らずにお食べなさい。神様の好物ですよ人参は」
「やあ、ウタ
 墨が少女を見上げて呼び掛ける。詩も墨に答える。
「お祈りをどうぞ墨」
「天にまします我らの神に」
 墨が十字を切ってそう唱える。彼女は黒いシャツの下に隠れていたロザリオを指に引っ掛けて取り出すと、それを掲げた。普通のロザリオではなかった。十字架に、兎の頭をしたキリストがくっつけてあった。蜜は首を傾げた。
「ここの神様は、全部その兎の姿をしてるの?」
「ええ。そのうち貴女にも、制服と一緒にこのロザリオが支給されます」
 詩が答えて、蜜の前にもスープを置いた。賽の目に切られた野菜と肉が入った、琥珀色のスープだった。墨が祈りを止めてスープを覗き込んだ。詩が墨の襟首を摘んで背筋を伸ばさせた。
「寮長、お祈りを」
「神様、今日も私達に糧をお与え下さり有り難うございます。私達はあなたの肉を食べあなたの血を飲みます。たとえあなたの血が腐り発酵していても、たとえあなたの肉が食べ頃を過ぎて蛆が湧いていても、私達はあなたへの感謝の気持ちを決して忘れずあなたの命一滴、欠片ひとつ残さず戴きます」
「墨」
 ふざけた口調で唱えられた祈りを、詩が厳しい声音で咎めたが、墨は無視して善人めいた微笑みを作り浮かべ、食堂の少女達を見渡した。
「神様からの贈り物だ。皆、感謝して戴きなさい」
 ぴたりと揃えた声で少女達から返事が来る。少女達が食事に取り掛かった。墨は蜜に食べるように勧めた。詩は溜め息をついて背後に控えたままだった。蜜は彼女に訊ねた。
「詩さんは食事を摂らないの?」
「墨の給仕係は私と決まっているのです」
「蜜、スープが冷めないうちに食べなさい」
 背後の詩の存在を気にも止めず、墨は自ら先にスープを口にした。蜜もスープを飲んだ。
 美味しいスープだった。野菜が甘く感じる。小さく切られた肉は、脂肪が少なくてさっぱりしていた。蜜は感心しながら言った。
「すごく美味しいスープだわ。でも、これは何の肉なの? 鶏かしら」
 眼を伏せてスープを喉に流し込み、肉を食んでいた墨が、さらりと答えた。
「兎だよ」
 墨はまたひと匙、スープを掬う。蜜はスプーンを運ぶ手を止めた。
「……神様を食べてしまうの? 信仰しているんじゃないの?」
「しているさ。だから食べる。神の血肉を分け与えられて、私達は神の兄弟となる」
 墨の言葉の後、詩が言った。
「ここでは鳥獣魚類等の肉は禁止されていますので、神の肉以外は食事に出されません」
 蜜は困惑して、琥珀色のスープを見詰めた。中に沈んでいる淡い色の肉片が、絶対に食べてはいけない物に見えた。これは兎の屍肉なのだ。兎なのだ。蜜は食欲が無くなって、スプーンを置いた。
 詩が無言で皿を下げた。墨が、スープを待ち構えて開いていた唇から、驚いた声を漏らした。
「どうしたんだい」
「兎を食べるのは嫌よ」
 蜜はナプキンの端できっちり口を拭いた。
「どうして他の動物では駄目なの」
 墨は一旦掬ったスープを皿に戻すと、微笑んで、優しく蜜に説いた。
「だって他の動物はとても食べられないだろう。犬は散歩に行かないといけないし、猫は爪で引っ掻かれたら大変だ」
墨の言葉に、蜜は眼を見開いた。
蜜の驚愕ぶりを特に気にした風もなく、墨は当然のように言葉を続けた。
「鳥は鳥籠から逃げられちゃったら悲しいし、鼠なんてあんまりだ。栗鼠は、棚に登って下りてこないしね」
 蜜は嫌な感じがして、椅子から立った。墨が蜜を不思議そうに見た。
「どうしたんだい……」
 蜜は墨に退席したいと言おうとした。その蜜の隣に、新しい料理を、詩がカートに載せて運んできた。
「お座り下さい蜜。肉料理アントレをどうぞ」
 詩は、蜜の目の前で、皿蓋を取った。それは大きな皿に載せられ、野菜に縁取られた、皮を剥がれた丸のままの兎だった。蜜は息を呑んだ。墨が嬉しそうに言った。
「今日のはまた美味しそうだな」
「兎の詰め物です」
 詩がナイフを取った。蜜は墨に腕を引かれて、椅子に戻された。座った蜜の丁度目の前に、兎があった。兎は膨張していた。腹の中に、一杯の蛆虫が詰まっているのだ。
 詩がナイフを兎の体に刺し込んだ。兎の腿の辺りに、ナイフがずぶりと入った。詩はナイフを抜いて、フォークを持って、切り離された兎の脚を持ち上げようとした。蜜に、兎の体の断面が見えそうになった。中にはきっと蛆虫が沢山詰まっている。蜜は悲鳴を挙げて、椅子を蹴って駆け出した。
「蜜!」
 墨が呼んだが、蜜は後ろを振り返りもせず、止まりもせずに食堂から逃げ出した。騒ぎ出した少女達を詩に任せて、墨も蜜の後を追って、食堂から立ち去った。
 詩は居なくなった墨の、スープ皿を片付け始めた。その卓上で、墨に置き忘れられた兎のロザリオが、笑ったように前歯を出していた。







 眼が覚めると、蜜はベッドの中だった。部屋の明かりは消されていて、墨は蜜のベッドの傍にある窓に腰掛けて、月明りだけで読書をしていた。
「明かりを点けていいわよ」
 声を掛けると、墨は振り向いて微笑んだ。彼女は眼鏡をしていた。
「気分はどう?」
 眼鏡を胸ポケットに収め、本に栞を挟んで閉じて、墨は蜜のベッド脇に膝を付いた。蜜の熱を測り、墨は安心したようだった。
「熱はないね。体を起こせるかい」
「あれからわたし、ずっと眠っていたの……」
 墨に手を貸され、言われるまま体を起こして、蜜は訊ねる。墨はサイドボードに立って、水差しとコップ、果物籠を持ち上げた。
「そうだよ。蜜、寮の鍵がなくて部屋に戻れなかったんだろう。寮の玄関前で気を失ったみたいに眠ってたから、運んだんだよ。つい先ね、寮母先生が心配なさってお見舞いに来られたよ。蜜は夕食を摂ってないから、お腹が減っているだろうって、これを」
 机から椅子を引いてきて、まず蜜に水を与えてから、墨は林檎と果物ナイフを持った。
「果物で、好き嫌いは?」
 そう言って笑う墨に、蜜は同じように笑ってみせた。
「ウサギを食べるのは嫌なのよ」
「それなら安心していい。私は無器用だから、ウサギの形に切れない」
 蜜は苦笑して、墨の手元を見守った。銀のナイフが、月明りを反射して眩しかった。蜜は窓の外の月を見た。満月だった。兎が満月の中にいた。
「窓を閉めて」
 蜜が鋭い声を出すと、墨は一瞬だけ蜜を不思議そうに見たが、ナイフを置いて機敏な動作で窓を閉めて、カーテンを曳いた。蜜は枕元の室内灯を点けた。
 墨は首を傾げて、椅子に戻った。蜜は訊かれないうちから答えた。
「兎は恐いの……」
「恐い?」
 墨が蜜を見る。蜜は大きく頭を縦に振った。蜜の怯え方が尋常ではなかったので、墨は深く追求せずに、蜜の背中を撫でた。
「大丈夫。恐いなら、私が兎から守ってあげるよ。だから落ち着いて」
 蜜は小さく頷いた。
 墨は手早く林檎を切って皮を剥くと、蜜に渡して、蜜が林檎を食べ終えるのを黙って待っていた。蜜が最後に水を飲むと、墨は立ち上がって、壁に備え付けてあるクローゼットを開けた。中に、新品の臙脂の制服が掛けてあった。
「蜜の制服が届いたんだ。ロザリオも来ているんだけど……」
 墨は机の上から長方形の黒い箱を取って、そう言った。中にはあの兎のロザリオが入っているのだろう。蜜は怯えるように、身を縮めた。墨も解かっているのか、蓋を開けなかった。
「君は欲しくないんだろう。クローゼットの奥に閉まっておくよ」
 蜜は小さく頷いた。水を飲み干したコップを墨に返した。
「明日、わたしは学校に行くのね?」
「ああ。蜜は詩と同じクラスだ。五年生の組だよ」
 蜜は少し驚いた。何となく、墨と一緒にいられるのかと思っていた。
「墨は何年生なの?」
「私は六年生だ。だから蜜とは一緒に講義を受けられない。残念だ」
 墨は蜜の頬に、掌で触れた。
「でも詩はいい奴だから、安心していい。蜜のことはちゃんと頼んである。詩が全て教えてくれるし、困ったら彼女に言えばいいからね」
 蜜がまた頷くと、墨は眼を細めた。
「さ、朝までぐっすりお休み。明日はきっと疲れるから」
 蜜は墨の言葉の意味を特に考えず、ベッドに横になった。墨が蜜の顎の下まで、きっちり毛布を掛けてやった。墨が囁いた。
「いい夢を」
 蜜は、墨のその言葉に誘われるように、深い深い眠りについた。
 墨は、蜜の寝顔を確認してから、黒い箱を手に、窓辺に立った。そして静かに窓を開け、黒い箱からロザリオを取り出すと、外へ放ってしまった。
 地面の上でかしゃんと小さく音を立てて、兎の頭は胴体から離れて、月の光の下に転がった。それでも兎は、前歯を見せて笑い続けた。




後編 書架


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