墨と蜜

前編 書架


後編







臙脂の制服に身を包んで、蜜は教室に入った。
ウタが傍に居てくれたお陰で、見知らぬ少女達ばかりの教室へは、それ程緊張せずに入れた。蜜は若い修道女シスターに言われて、教壇の上に立った。少女達は好奇の瞳で蜜を見ていた。修道女が言った。
「皆さん、新しいお友達の蜜さんですよ。蜜さんはまだ来たばかりで解からないことが多いでしょうから、皆さん協力して差し上げましょう」
 少女達は相変わらず、声を揃えて返事をする。詩が蜜に言った。
「蜜は私の隣の席です。こちらへ」
 詩は先に立って歩き出した。その後を付いていく蜜の、服の裾を、一人の少女が掴んで引き留めた。
「ねぇ貴女。昨日着ていたドレスはどうしたの?」
 蜜は親しい口をきく少女に戸惑った。すると詩が少女の手を叩いた。
「君は講義に集中しなさい。ずっと五年生のままでいたいんですか?」
 少女は不貞腐れた顔をして、手を引っ込めた。詩は蜜を連れて、教室の一番後ろの窓際の席へ着いた。蜜は窓のすぐ隣だった。窓から、遠くに立派な樫木オークが見えた。その大きな枝振りを見ていると、枝の先で何かがきらりと光った。
「教科書は机の中に入っていますよ」
 詩に囁かれて、蜜は引き出しに手を入れた。固い表紙の冊子があった。取り出すと、少しざらついた感触の、薄黄色の表紙をした教科書だった。そこに、朱色のインクでAと書かれていた。教壇で、修道女がか細い声で講義を始めたので、蜜は小さな声で、詩に訊ねた。
「これ、何の意味があるの?」
「Atonementの頭文字です」
 詩も声を潜めて、答えた。蜜にはそれが何の意味か解からなかった。だが詩は当然のように答えたし、修道女が講義をしているのだから、これ以上の質問は詩に迷惑だと思って、蜜は口を噤んだ。後で訊き直すか、何なら墨に訊いてもいい。蜜は教科書を開いた。だが、教科書は全て白紙で、何処を捲っても、一文字も見付けられなかった。蜜は仕方なく、また詩に囁いた。
「ね、これ、酷い乱丁だわ。一文字も印刷されてない」
 詩は事も無げに答えた。
「いいえ、それでいいんですよ。ここでは授業は行なわれないのですから」
「授業がない?」
 蜜は思わず声を挙げてしまった。一瞬だけ教室が静まり返り、修道女がこほんと咳払いをした。蜜は慌てて黒板に向き直り、畏まった。修道女は穏やかに微笑み、講義を続けた。
「国王は、七人の小人を呼び寄せました。小人は部屋の隅にしめ縄を張り、そこに姫の遺骸を横たえ、姫の躯を木槌で三十六回打ち付けました。これが”蘇生術”です。よろしいですか? 小人は葡萄酒で姫の体を洗いました、これも儀式の一端です。こめかみに油を擦り込み……」
 蜜は講義の内容に、首を傾げた。何の科目だと言うのか。否、そもそも詩は先、授業がないのだと言った。それではあの修道女は何の為に講義をしているのか。蜜は訳が解からずに、困って、真白い教科書を見下ろした。







 昼食の時間になって墨と会えて、蜜はやっと落ち着いた気持ちがした。
「初めての授業はどうだった?」
 墨は、また蜜の席を引いて蜜を座らせながら、蜜に囁いた。蜜は椅子に座って溜め息をついた。
「訳が解からなかったの……」
「詩は説明をしなかったのかい」
「そうじゃないわ。………何から何まで解からなくて、仕舞いには、何を訊いたらいいかも解からなかったの」
 墨は隣に腰を下ろして微笑んだ。
「じゃ、何を訊きたいのか、一緒に考えてあげよう。修道女の講義はどうだった?」
「蘇生術がどうのって言っていたわ。何の為にそんな話をしたのか、解からないわ」
 蜜が言うと、墨は簡潔に答えた。
「解かる必要はないんだよ。ここには試験がないのだから、彼女の講義に意味はない。興味があることだけ聴けばいい」
 蜜は眼を剥いて、しばし絶句した。そしてその後から、立て続けに質問をした。墨も全て簡単に答えていく。
「教科書も真っ白だったわ。あれも試験がないからなの?」
「その通り。あれは自分の思いを書き留めるか、講義の中で興味があったことを書き取るときに使う物だよ」
「じゃ、どうして教科書なんて呼ぶの」
「他に呼び名がないからだよ」
「試験もないのに、どうして学校へ行って授業を受けるの」
「自分が人間であることを忘れない為さ」
 墨の答えの意味が解からなかった。蜜が墨を見詰めると、墨は補足してくれた。
「毎日、生きる為に最低限必要なこと……食事、睡眠だけを繰り返していたら、私達は動物と何ら変わりが無くなってしまうだろう。その内、自分が人間であることさえ忘れてしまうかも知れない。人間は、人間らしい営みをしていないと、自分が何者か忘れてしまうなんて言う、ちょっととぼけた生き物だからね。この教会では本来、お互いにコミュニケーションを取る為の言語習得教育より、先の教育は必要としていない。でもそれだけでは人は惚けてしまうから、その為に形だけの授業をしているに過ぎないんだよ」
 蜜は首を傾げた。
「でも、学校が無くなったくらいじゃ、わたし、自分が人間であることを忘れたりなんてしないわよ」
「そうかい? 人間は感覚的な生き物だよ。たとえばね、一日中パジャマ姿で、何の用事もなく過ごしていたら、気分がだらけてしまわないかい?」
 墨に言われて、蜜はちょっと考えてから頷いた。
「そうね。それだと確かに、一日締まりなく過ごしたりするわ」
「じゃあ、朝早く起きて、制服に身を包んだらどう? 何となく、頭が冴えてきたりしない?」
「……そうね。気分が引き締まるわ」
「それと同じことだよ。別に努力する必要はないけれど、生徒に制服を着せて、毎日授業を受けさせる。形が問題なのさ。儀式みたいな物だね」
 詩が料理を運んできた。
「スパゲティ・炭焼き風カルボナーラです」
 蜜は墨と自分の処に皿が並べられるのを見ながら、誰にともなく訊いた。
「今朝も思ったんだけど、鶏肉は禁止されているのに、卵はいいのね」
 答えたのは詩だった。
「卵は獣に成る前の命ですから、植物と同等に扱われます」
「卵は手も脚もないから、散歩に連れてかなくていいからね。爪もないし、羽もない。棚にも上らないから、動物じゃないんだ」
 また墨の可変しな理屈が出てきて、蜜は唇の端を曲げた。詩がサラダを取りに行くと、蜜はふと思い出した。
「ね、墨。この学校、試験が無いのなら、どうやって進級するの。詩さんが今日、クラスの子に言ったわ。『ずっと五年生のままでいたいんですか』って。試験がないのに、どうして進級出来たり出来なかったりするの?」
「ああ……。進級は当人の生活態度によって決められるんだ。勤勉に学習する必要はないけれど、だからって不真面目過ぎてはいけないんだ」
 詩がサラダを持って戻ってきた。墨は食事を早くしたいのか、今度は食前の祈りを早口で言い終えてしまった。詩はまた難しい顔で墨を見たが、墨はそんなことは気が付かず(無視して?)、フォークを手にした。
 蜜もフォークを取った。しかし、パスタの上の肉が気になった。普通、炭焼き風は豚肉を使う筈だが、ここでは豚は禁止されている。とすれば、これも豚の代わりの兎肉なのだろう。蜜は唇を引き結んだ。
 蜜の耳に、墨が囁いた。
「残して構わないよ。皆には、君が兎アレルギーだって言ってあるから」
 墨は悪戯ッ子のように笑う。蜜は眼を瞬いた。兎アレルギーは、兎が傍に居るとくしゃみが出る、とかそう言う体質の者ではないのか、と思った。一体、教会中のいたいけな少女達を、どうやって言い包めたのだろう。蜜は、墨は決して軍人のような生真面目なタイプの性格ではないことを、ようやく知った。
 しかしその墨のお陰で、蜜は肉を全部皿の隅に避けてから、パスタに手を付けることが出来た。兎を食べずに済むのなら、気が楽だった。パスタも美味しかった。蜜は気分が良くて、また会話を再開した。
「そう言えばね、教科書の表に、朱色のインクで、おっきくAって書いてあったの。あれってどういう意味? 詩さんに聞いたけど、英語だけしか教えて貰えなくて、解からなかった」
 その詩は、食後のフルーツを取りに行っていて、背後にいなかった。
 墨は誰よりも早く食事を終えて、水を一口飲んだ。
「詩は、Atonementの頭文字って答えたんだろう」
「それは何て意味なの?」
「贖罪。罪滅ぼしとか、償いとか、そう言う意味だ。ついでに教えると、インクの色は朱色じゃない。緋色だよ」
 何が違うのか、蜜にはよく解からなかった。詩がフルーツの盛合せを持ってきたので、訊ねてみた。
「詩さん、朱色と緋色は、何が違うの?」
「どちらも同じ赤色系統ですね。朱は黄みがかった赤色で、緋は朱が濃く明るくなった色です」
 明確な違いがあるとも思えなかった。何故墨が色の名称にこだわったか、蜜にはその意図が解からない。墨は桜桃さくらんぼをぱくぱく食べていた。詩が墨に言った。
「食事が済んでも逃げないで下さいね。礼拝堂で御用がありますから」
「ああ面倒だ」
 墨は桜桃の種を、ぺっと皿に吐き捨てた。蜜は、また墨と離れてしまうので、つまらなかった。昼休みは、校内を案内して貰いたかった。
「それじゃあ蜜、明日は一緒に昼休みを過ごそうね。行ってくるよ」
 墨は、詩を連れて立ち去った。
 残された蜜は、退屈で、初めて食堂にいる少女達を見た。少女達は好奇の眼で蜜を見ていた。何だか嫌な気分だった。蜜の何がそんなに可変しいと言うのか。檻の中の珍獣を見る目付きの少女達と、一緒にはいたくなくて、蜜は一人で食堂から出た。
 昼休みを一人で過ごすことになって、蜜は、教室の窓から見えた樫木を思い出して、それを探そうと思った。枝の先に光っていた物が気になった。
 蜜は校舎に戻ると、玄関から、窓のあった方へ回った。樫木は、寮の方にあった。樫木を目指して歩いていくと、寮のすぐ側に来た。樫木は寮の隣に生えていたのだった。
 蜜は樫木の側に立った。枝を見上げると、まだ光る物があった。
「鎖だわ」
 蜜は呟いた。細い銀の鎖が、枝先に引っ掛かっている。
「ペンダントに使う鎖ね……どうしてあんな処に引っ掛かったのかしら」
 枝を見上げながら、幹の側をうろうろしていたら、足下でばり、と何かが砕ける音がした。何かを踏んでしまったらしい。蜜は慌てて足下を見て、足を退けた。蜜が踏んだのは、陶器で出来た、人間の腕だった。見覚えがあった。
「ロザリオの腕?」
 蜜は肘から真っ二つに割れた手と、胴体を拾った。胴体は踏み損なったのか、無事だった。ただ、あの兎の頭部が無かった。蜜は何となく恐ろしくなって、辺りを見回した。あの笑ったような顔の兎が、何処からか自分を見張っている気がした。蜜は樫木の回りの地面を睨んだ。草の中で、何かが光った。
 草を掻き分けて覗き込むと、兎の頭が転がっていた。兎は確実に笑っていた。兎がやけに甲高い声で話しかけてきた。
『やあ蜜。どうしてそんなに難しい顔をしているんだい』
「……どうして兎が、神として崇拝されているのか、解からないからよ」
 兎が余りに自然に話すので、蜜は特別、驚かなかった。ただ、蜜はやはり恐かった。蜜は何時でも逃げれるように距離を取ってから、兎に答えた。すると兎はけたけたと笑った。
『はっはあ。それは君には不思議だろうね。兎殺しの君には!』
「……何ですって?」
 兎は頭だけで笑い続けて、地面の上をころころ転がった。
『覚えてない? 君、五歳の頃に僕を殺したじゃない。ちっちゃな鞄に僕を詰めてさ。友達に見せたくなかったんだろ? 僕を独り占めしたかった。君は僕を玩具の鞄に隠して、クローゼットに仕舞い込んだ。友達が帰ったら、こっそり出して僕と遊ぶつもりだった。でも、君はママに呼ばれて夕ご飯を食べ出して、僕のことなんてすっかり忘れちゃった』
 蜜は手に持っていた壊れたロザリオを落っことした。体ががたがた震えていた。手が強ばって、汗が流れていた。蜜は顔を覆った。
 兎はくすくすと笑い声を止めない。笑う兎は膨張していた。蛆虫が中に入っているからだ。兎は真白かった。蛆虫が体中を這い回っているからだ。
 蜜はある日、クローゼットを開けた時に鞄に気が付いた。梅雨が近付いていて、蒸し暑い日だった。
 何も考えていなかった。ただ、その中に兎がいるんだったなあ、と思った。蜜は鞄の留め金を外して、鞄を開けた。白い兎が、ぐったりと横たわっていた。兎は、蜜に背を向けていた。兎は白かった。膨張していた。兎の体の上を、幾匹も幾匹も、蛆虫が蠢いていた。
 蜜は悲鳴を挙げた。
 兎が笑い声を爆発させた。
 蜜はその場から走って逃げ出した。兎の笑い声が後を追ってきた。
『Aは贖罪の頭文字! 蜜! 蜜! あれは緋文字だ。罪を注ぐんだ兎殺しの蜜! 早く進級したいだろう! あっはっははは!! はっははははっはははははははははははっっはははははははははははははははははははははは!』
 蜜は耳を塞いで逃げ続けた。







 蜜は寮の側から逃げ出して、礼拝堂に向かった。墨を捜した。庭を突っ切って、礼拝堂の扉を勢い良く開ける。蜜の目の前に、一直線に続く道があり、その正面には十字架に掛けられた神がいた。その神像の前に、一人の少女が跪いて祈りを捧げている。蜜は、彼女に声を掛けた。
「墨!」
 墨は立ち上がって、静かに蜜を振り返った。
「どうしたんだい」
「兎がわたしの罪を喋ったのよ」
 蜜は誰も居ない礼拝堂の空席の間を走り抜けて、墨の処へ行って彼女に縋った。墨は初めてあった時と同じ、厳格な表情で蜜を見た。
「落ち着くんだ蜜。君の罪とは何だ?」
 蜜は顔を真赤にして、兎に角夢中で喋った。自分の罪を喋った。
「わたし、わたし小さい頃、兎を一匹死なせてしまったのよ! ただ、他の子に取られるのが嫌だっただけなの。まだ小さくて大人しかった白い兎を、玩具の化粧箱に仕舞って、クローゼットに隠したわ。すぐに出してあげるつもりだった……。でも、わたし忘れてしまって……」
 蜜は兎の姿を思い出して、嗚咽を漏らした。墨は蜜の背中を撫でて、囁いた。
「それで?」
 蜜は涙をぼろぼろ零しながら語った。
「兎のことを、暫くしてから思い出したわ。鞄を開けてみたわ。そしたら兎は、兎は中で、白く、大きくなっていた……。……膨らんでたの。死んでいたの! 死んだ兎に、白い蛆虫が何匹も乗っかっていたの! わたしが鞄に閉じ込めたから、忘れたりしたから、兎はあんな酷いこと……!」
 蜜は半狂乱の体で、激しく身震いした。
「鞄の中で窒息死したのよ。兎は小さかったけど、鞄だってとても小さくて、狭かったはずだわ。暴れ回ることも出来ないで、餌も水も与えられないで、まるで棺桶の中に入れられたのと同じだったのよ。あの狭さじゃ、酸素もすぐに無くなって、苦しかった筈だわ。あの子はクローゼットの奥で鳴いていた筈よ。鞄の内側には幾つも爪で引っ掻いた後が残ってた。兎の足先は皆、真赤になってた。そして、そこにも蛆が湧いてた……!」
 蜜は眼を瞑って、嗚咽を堪えて、その場に力なく膝を付いた。立っていられなかった。墨は前屈みになって、蜜の頭を撫でた。
「……蜜」
「パパとママにすぐ見付かったわ。二人は叱ってもくれなかった。余りに惨たらしいことだったから、大人だって顔を背けた」
「蜜」
「そんな真似を、わたしは五歳で遣って退けたのよ!! とても普通の神経の人間には出来たことじゃない、でもわたしは兎を殺したの」
「蜜、何故泣くんだい」
 墨が、蜜の頬に伝う涙を、指で拭った。墨は囁いた。
「君は、何の為に泣くんだい。兎の為か」
「……そんなの、何の為でもないわ……」
 墨は眉根を寄せた。蜜は涙を堪えたくて、幾度もしゃくりあげた。
「だって兎は死んじゃったのよ。もう戻せないのよ。何の為に泣けと言うの。泣いて兎は戻ってくるの? 戻らないわ。そんなことで兎が戻るのなら、幾らだって泣いてみせるけど、そんなことは関係ない。わたしはただ、どうしようもなく泣けてくるのよ。何も解からないわ。ただ、兎がどれだけ苦しがって死んだのか、どれだけ理不尽な死を呑ませられたかを考えて、どうしようもなく馬鹿な真似をした自分が救い難くて、いろいろ考えたら、結局泣くしかなかったのよ」
 墨は驚いた顔を見せた。蜜は彼女には構わず、両手で顔を覆って、肩を震わせた。堪え切れない涙が、どんどん溢れてきて、蜜は顔を手の甲で擦った。
「兎に酷いことをしたんだわ」
 一際大きくしゃくりあげて、蜜は神像を見た。張り付けられた兎が笑っている。蜜は再び涙が溢れてくる前に、兎に言った。
「ごめんね」
 また、墨が驚いた顔をした。
 突然、礼拝堂の上で、鐘が鳴り出した。






 鐘の音は何の合図だろうと思って、蜜は墨を見た。墨は寂しそうに笑った。
「おめでとう蜜」
 何時の間にか、空席だった礼拝堂の椅子に、教会の修道女達や少女達が座っていた。詩もいた。
 墨が蜜に手を貸して、立ち上がらせた。墨は蜜に囁いた。
「蜜はもう、自分の家に帰れるよ」
「……どういうこと」
 蜜は墨と、他の面々を見渡した。墨が蜜の手を引いて、扉の方へ歩いていった。蜜は少女達の視線を浴びて、墨と共に椅子の間を通っていく。少女達は虚ろな眼で蜜を見ている。蜜が墨を見ると、墨は微笑んだ。
「この教会へ来る者は皆、何かしら罪を犯した者達なんだ。その罪の意識に苛まれて、自己崩壊寸前の危険な状態になった者が、最後の救いを求めてここへ来る」
 蜜は墨を見た。墨は前を向いてしまって、表情が見えなかった。蜜は、背後から付いてくる詩を見た。詩も罪を犯したと言うのか。
 墨は言う。
「先、言ったね。ここでは、進級はその者の生活態度の善し悪しで決めるって。詳しく言えば、ここでの進級は、己の罪を正面から見詰めて、認めて、悔い改めて、その上でまた元の世界で生きてみようと思えた者だけが出来ることなんだ。進級の最高学年は五年生。それより上は、もう卒業だ」
 墨は扉の前で立ち止まった。
「蜜はたった二日で卒業だ。君はきっと、たまたま情緒不安定になっていた時に、ここへ迷い込んできてしまったんだろうね。さ、扉を開けなさい。君はもう帰れるから」
 墨が、蜜だけ残して、扉から離れた。蜜は墨を見た。
「……墨。最高学年が五年生なのはどうして? 貴女は六年生でしょう?」
 墨は、微笑んだ。初めて見る、弱々しい微笑み方だった。
 墨は言った。
「私には、帰る場所がない」
 蜜は立ち尽くした。
 詩が扉を指差した。
「蜜。十二回目の鐘が鳴り終える前に、扉をお開けなさい」
 蜜は扉を見た。浮き彫りにされた張り付け兎が、涙を流して笑っていた。
 蜜は兎の涙に触れてみた。温かい涙だった。
 墨が蜜の背後に立って、扉に手をついて、蜜に囁いた。
「さようなら」
 墨の手によって扉が開かれた。外では、耳が壊れそうなくらい、大きな鐘の音が響いていた。
 十二回目の鐘が鳴った。
 蜜の眼に、海が見えた。







 蜜は、独りで、部屋の中央に立っていた。目の前の窓から、海が見えた。
 蜜は、背後を振り返った。自室のドアがあった。
 蜜は、自分の格好を見下ろした。臙脂色の制服を着ていた。蜜は首を傾げた。何故、自分はこんな服を着ているんだろう、と不思議に思った。
 ドアがノックされて、母が入ってきた。
「蜜、夕ご飯よ。……あら、どうしたの、中学校の制服なんて着て」
 蜜は肩を竦めて、母を見た。
「よく解からないけど、制服着ると気分が冴えるわ」
「変な子ね……。着替えて、下りてきなさい」
 母がドアを閉めた。蜜は制服を脱ごうとした。
「夕食は六時からだよ」
 誰かに囁かれた気がして、蜜は振り返った。
 開け放した窓辺に、白い兎が、蜜の方を向いて、座っていた。
 蜜は兎に向き直った。兎は蜜に背を向けた。
 蜜は、兎の向こうの、海を見た。兎も、海を見た。
 兎が窓を蹴った。
 兎が窓の下へ墜ちていった。
 蜜は窓に駆け寄った。窓の下を見下ろした。






「私には、帰る場所がないんだよ」







 十三回目の鐘が鳴り響いた。











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